ジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』(星埜守之+塚本昌則訳、みすず書房、2005/01、amazon.co.jp)#0167
 Julia Kristeva, VISIONS CAPITALES(Editions de la Réunion des musées nationaux, 1998)


本書は、ルーヴル美術館が(美術館・美術史)外部から人を招いて展覧会を構成させる「Parti Pris」展(パルティ・プリ=偏見/決意)の一環としてジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva, 1941- )が企画した Visions capitales (1998/04/27-07/27)のカタログから、クリステヴァによる本文、フランソワ・ヴィアット「まえがき」、レジス・ミシェル「アリバイ?」を訳出したもの(残念ながら出品作品への解題などは省かれている)。


パルティ・プリ展は1990年からはじまり、ジャック・デリダが企画を担当した第一回の「盲者の記憶」のカタログは、鵜飼哲氏によって邦訳されている。



ジャック・デリダ『盲者の記憶――自画像およびその他の廃墟』鵜飼哲訳、みすず書房、1998/11、amazon.co.jp


同展覧会自体やカタログを確認できていないので伝聞の情報になるけれど、同展はその後、ピーター・グリーナウェイ(1992)、ジャン・スタロバンスキ(1994)、ユベール・ダミッシュ(1995)などが担当しているとのこと。


クリステヴァは、美術史上にあらわれたさまざまな「斬首の光景」を分析しながら、「見えるものと見えないものとの境界にあるデッサンの力」を描き出そうとしている。先史時代、メドゥーサ、洗礼者ヨハネ、聖画布(キリストの顔が映し出された布)、断頭台といった西欧における斬首の(あるいは斬られていないけれども頭部のみがモチーフとなっている)イメージを、主に精神分析の知見を援用しながら解釈している。

ここ〔本書――引用者註〕では切られた首が問題となる。それが私たちに明かすさまざまな歴史は、残酷なものだ。それらの歴史を通して、死の欲動に取り憑かれ、殺人に恐怖を感じた人類は、結局、力強くはないが、心に深く響く次のような発見に達したと認めている。つまり、唯一可能な復活は……表象だろう、という発見に。曝された斬首の光景はその証拠である。その暴力的な光景から洗練された光景までをたどる旅へとご招待しよう。この道筋をたどり終えた後では、斬首があろうとなかろうと、あらゆる光景は首の実体変化〔トランススプタンシオン〕*1にほかならないということを納得していただけるだろう。

(同書、p.1)


一読ではうまく納得できなかった。ので、またあとで読み直してみたい。


という与太は置いといて。


興味深いのは、このパルティ・プリという試みだ。


ルーヴル美術館学芸員・レジス・ミシェルは本書(カタログ)に寄せた「アリバイ?」という文章の中でつぎのように述べている。

人々は美術館に、何よりも自由と多様性と他者性の場所であることを期待するかもしれない。しかし残念ながら、事実はそうではない。歴史の言説さえ、言語学的転回を知らないその廃語的形態においては真理の言説である以上、美術館に複数性を禁じている。しかも、知性の生産物を本当に管理するようには作られていない行政部門の位階的な諸制約のせいで、画一性という束縛まで課されているのだ。このことは、国家装置のイデオロギー役割に通じている(アルチュセールを見よ)。ここにおいて文化産業は、かつてニーチェが嘲笑していた、精神の調教の嘆かわしい様相を帯びる。大部分が個別の作家を扱っている幾多の大展覧会は、壁面の伝記という不可侵のパラダイム、ないしは展示壁のヴァザーリ主義に固定されている。そのうえ、ますますその重みを増し続けている経済的な賭け金が、展示されている芸術家たちをサンドイッチマンに変えてしまうような広告的理想の、収益がらみの発展へと押しやっている。問題は鑑賞者の目を刺激することでは少しもない。まったく逆に、その眼差しを飼いならすことなのだ。作品の注釈を封印してしまうような一元論的信条の助けを借りつつ。そうして、美術館は出来合いの知の、すなわち断片と化した文化の標準化において、極めて重要な装置となるのである。

(同書、pp.268-269)


訳文のせいか原文のせいかやや硬い文章だけれど、言われていることは要するに、行政と資本と美術史という制度の諸力の関係のなかで美術展がつくられているため、ひとが思うほど自由には企画されていないということだ。


日本の美術館の内部事情はわからないけれど、上記引用文でレジス・ミシェルが述べていることは、一参観者として日ごろ日本の美術展の多くについて感ずるところとも一致しているように思う。つまり、わたしたち(と言って悪ければわたくし)は、巨匠の名を冠した美術展や、ある美術史上のカテゴリ(ルネサンス印象派アール・ヌーヴォー etc)を冠した美術展、つまりは美術史上の常識の枠内で組み立てられたあたりさわりのない展覧会に馴らされすぎてしまっていないだろうか?(なぜ新聞社や百貨店がしばしば美術展の後援をしているのか?――ってしてもよいわけですが) 半分とは言わないまでももすこし多様なテーマによる展示があってもよいのではないだろうか(と偉そうに言うほど美術展に足を運んでいるわけではないのですが)。


レジス・ミシェルの文章のつづきを読んでみたい。

十年近く前〔本書の原書は1998年刊行。パルティ・プリの第一回は1990年開催――引用者註〕に発足してからこのかた、ルーヴルの「パルティ・プリ」はたった一つのことを目指してきた。美術館自体のなかに――制度(つまりシステムの中心部)のただなかに――批判的空間を作り出すことである。自由地帯、断絶の場、といってもいい。文化産業の単一的な論理との断絶。美術史という還元的言語の嘆かわしい独占との断絶。

(同書、p.269)


かの地でこの試みがどのように受け止められてきたのか、寡聞にして知らないのだけれど、邦訳された二冊のカタログを観るかぎりでは美術を思考する別のチャンネルを拓くことに成功しているように見える。


京都国立近代美術館の尾崎信一郎氏が企画した「痕跡――戦後美術における身体と思考」展(現在、東京国立近代美術館に巡回中)は、美術館の内部から提出された企画という点ではパルティ・プリの試みと異なるけれど、画一的な美術史を解体・再構築しようという動機を共有した、非常に啓発的な展覧会だった(これについては別のエントリで考えてみたい)。


ルーヴル美術館(仏語)
 http://www.louvre.fr/

*1:聖餐のパンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わること。