ジュリア・マーガレット・キャメロン「マーガレット」(1860-1870頃)
「写真はものの見方をどのように変えてきたか 1 誕生」東京都写真美術館


人が写真史への道に踏み込む入り口はいろいろあると思うけれど、たとえば蓮實重彦(はすみ・しげひこ, )氏の大著『凡庸な芸術家の肖像——マクシム・デュ・カン論』青土社、1988/11; 上下巻、ちくま学芸文庫、筑摩書房、1995/06、amazon.co.jp)もそのきっかけを提供する一冊だと述べたら人は意外に思うだろうか。雑誌現代思想青土社)に、1979年から足掛け8年にわたって連載され、加筆を経て2年後に刊行された800ページを超える書物のなかには、たしかに写真の誕生にまつわるエピソードが含まれており読み手の関心を写真のはじまりへと向けるのに十分な紙幅が割かれていたように思う。


というのも、ほかならぬ同書の主人公マクシム・デュ・カン(Maxime du Camp, 1822-1894)は、写真史の初期といってさしつかえない時代に『エジプト、ヌビア、パレスチナ、シリア1849-51年の写真スケッチ』(Egypte, Nubie, Palestine et Syrie: Dessins Photographiques recuillis pendant les années 1849 et 1851)(1852)という写真入りの書物をつくっているのだ。彼は旅先の風景を正確かつ豊富に持ち帰るために従来の記録手段であったスケッチにかえて写真を選んだのだった。ところで同書において蓮實氏はマクシムの写真集についてこう述べている。

写真集なる書物をどのように作ったものか、誰も知らなかった時代のこと故、マクシムはその工場に何度も足をはこび、印刷の具合をみずから確かめる。それは文字通りの手仕事であり、先行するモデルを持たない捏造品である。

(同書、145ページ)


果たしてマクシム・デュ・カンにとって「先行するモデル」と言いうるかどうかわからないのだが、年代的にマクシムに先行するものとしてアンナ・アトキンズの『イギリスの海藻の写真』(1843-53)や、タルボットの『自然の鉛筆』(The Pencil of Nature)(1844-1846)といった写真集の試みがあることを知ったのは、『凡庸な芸術家の肖像』に導かれて写真史の書物をひもといたあとのことだった。


ときに、いま言及したマクシムやタルボットの作品を東京で観ることができるのをご存じだろうか。


ジョン・H.ハモンド『カメラ・オブスクラ年代記』(川島昭夫訳、朝日選書、朝日新聞社、2000)
2005年4月2日(土)からはじまった、東京都写真美術館の開館10周年を記念した特別企画展「写真はものの見方をどのように変えてきたか 1 誕生」には、写真史の黎明期をかざる作品が多数出展されている。主だった固有名をひろっておこう(ただし書影はことのついでに関連書を示すもので、本展覧会とは直接関係がない)。


カメラの前身となったことで写真史のはじめに登場するカメラ・オブスクラ(Camera Obscura)(カメラ・オブスクラとは、暗箱の一面に開けられた穴を通る光が穴の向かいにある面に外側の光景を映し出す装置である)。


ジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(Joseph Nicéphore Ni&eactue;pce, 1765-1833)が1826年にはじめてカメラ・オブスクラの像を金属板に定着させることに成功した「エリオグラフィ」(Heliographie=太陽による画)の作品。


ダゲール『完訳ダゲレオタイプ教本??銀板写真の歴史と操作法』(中崎昌雄訳、クラシックカメラ選書、朝日ソノラマ、1998/09)
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787-1851)が1839年に公開し、ヨーロッパでまたたくまに広まった「ダゲレオタイプ」(Daguerréotype)とそれによる写真。


ダイレクトプロセス(直接印画法)を実現したダゲレオタイプに対して、ネガ・ポジプロセスを考案し、写真に複製の道を大きく切り拓いたイギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot, 1800-1877)と彼の「カロ・タイプ」(Calotype)と写真史上最初の写真集とも言われる『自然の鉛筆』ほか。


ダゲレオタイプが発表される前に独自の方式によるダイレクトプロセス式の「バヤール・タイプ」(Bayardtype)を開発しながらも科学アカデミーの後ろ盾を得たダゲレオタイプに押されて発明者として不遇をかこったイポリット・バヤール(Hippolyte Bayard, 1801-1887)が科学アカデミーに抗議のために送りつけたという死者に扮した写真とその裏面に綴られた抗議文等々。


また「渡海」と題した後半では、カメラがとらえた幕末日本の風景や肖像写真が多数展示されている。


「写真はものの見方をどのように変えてきたか」——実をいえばこの提起を実感することはむつかしい。カメラはもちろんのことヴィデオやCGが氾濫する世の中に生まれた身とあっては、写真とははじめからあるもの、あまりにも見慣れてしまったもののひとつだから。


飯沢耕太郎監修『世界写真史』(美術出版社、2004)
人間はたいていのことに慣れてしまう。いまやネットワークを通じてコンピュータ同士で動画さえ送受信できることを誰もいぶかしがったり不思議に思ったりしないだろう。しかし、ほんの四半世紀前には動画はおろか画面に一枚の画像を表示するのにさえ相当の時間がかかるような、そんなコンピュータが使われていたのだ。私たちはいまから見れば低スペックもいいところのコンピュータに、当時十分に驚き、また、性能の進展に眼をみはってもきた。しかし、現在の姿になったコンピュータに慣れてしまえば、以前自分が何に驚いていたのかも明確に思い出せなくなる。


しかし、そこに展示されたカメラと写真以前には写真が存在しなかったことに思いをいたすとき、あるいは、そうした機材や化学的手法といった物質的・技術的条件に支えられて写真が可能になったことを思い返し、はじめてカメラを手にした人びとが写したものに向かい合うとき、彼/彼女たちが感じたかもしれない驚きを日頃よりもいくらか多く想像してみることができるのではないだろうか。もう一度、写真がなしえていることに驚くためにも、というよりも、よく見ることさえもおろそかになりはてつつあるわが眼を洗いなおすためにも、本展覧会によって写真の歴史に向かいあうことは有意義だと思う。


本展覧会は目下開催中の第1部をふくめ、全4部構成の予定。

・第1部【誕生】(2005/04/02-05/22)
 ・誕生——発明された第三の視覚
 ・渡海——往来する「術」と「像」


1839年、第三の視覚「写真」が誕生、欧米で普及、さまざまに展開した。やがて海を渡り、写真師と技術が日本へ。現代につながる源泉をオリジナルプリントから探ります。


・第2部【創造】(2005/05/28-07/18)


写真にとっての芸術とは、表現とは。19世紀末から1930年代までモダニズムの時代に百花繚乱な試みがなされた写真を紹介します。


・第3部【再生】(2005/07/23-09/11)


写真家という存在が時代と社会の中をいかに生きたかをテーマとして、主に太平洋戦争を生き抜いた写真家たちの軌跡を列伝的にたどります。


・第4部【混沌】(2005/09/17-11/06)


美術館が生み出した写真表現の新しい「かたち」……
1970年代以降の現代写真の混沌(カオス)を一望します。


東京都写真美術館
 http://www.syabi.com/




■追記(2005年05月15日)


「マクシム・デュ・カン展」ポスター
2001年の2月から3月にかけて、三鷹市美術ギャラリーにおいて「マクシム・デュ・カン展——150年目の旅」が開催されていた、という情報をお寄せいただきました(私自身は同展を見逃しており参観していませんが、上記エントリに関連して有益な情報なので同ウェブサイトの解説にそってここに追記しておきます)。同展覧会ならびに図録の内容について情報をご提供してくださった山村修さんに感謝いたします。


同展は、マクシム・デュ・カン(Maxime du Camp, 1822-1894)の写真集『エジプト、ヌビア、パレスチナ、シリア1849-51年の写真スケッチ』(Egypte, Nubie, Palestine et Syrie: Dessins Photographiques recuillis pendant les annees 1849 et 1851)(1852)に使われた125点の写真を展示に供したもの。これはマクシム・デュ・カンが1849年にフロベールとともに訪れた中近東諸地域で撮影した2000枚に及ぼうかという写真をもとに制作された書物である。


図録書影
注目したいのは同展覧会の図録で、上掲原書の体裁を踏襲したつくり(装幀の外観、写真の掲載順など)になっているとのこと。蓮實氏の書物を通じてマクシム・デュ・カンに関心をそそられた身としては在庫があれば手元におきたい一冊。


三鷹市美術ギャラリー > マクシム・デュ・カン展
 http://mitaka.jpn.org/gallery/036/index.html


三鷹市美術ギャラリー > 図録
 http://mitaka.jpn.org/store/gallery03.html#g22