現代思想第33巻第7号、2005年6月臨時増刊号(青土社、2005/06、amazon.co.jp


臨時増刊号の総特集は「ブックガイド日本の思想——『古事記』から丸山眞男まで」


古事記から井筒俊彦『意識と本質』まで49冊のガイド。思想、物語、歴史、芸能、小説などさまざまなジャンルの作品がラインナップされている。一作品について四ページ(三段組)のヴォリューム。


中江兆民『選挙人目さまし』、竹越与三郎『二千五百年史』津田左右吉『神代史の新しい研究』山川菊栄『女の立場から』高群逸枝『恋愛創生』ほか、こうしたリストではあまりお目にかからない書目が並んでいるのが目にとまる。


子安宣邦氏は序文「古典を読むこと、そして読み直すこと」で、こんなふうに述べている。

ここに並ぶ日本の過去の古典的な著作、ことに明治以前の著作はまさしく読み直しの大業からなる著作である。ここにあるのは歴史や伝承を、経典や教説を、知と情の文学的形象を再び読み、その読み直しによって新たな言葉を見出していった先人たちの大業のリストといっていい。そしてここには人びとにとって口当たりのよい教養的書目が並んでいるわけではない。いわゆる古典という教養的書目とは、人にただ「読了」書目の多寡を競わせるような教養主義、あるいは本屋の側からすれば商業主義からなる代物だろう。そのような教養的目的のためのブックガイドとは、リストの提示以上のものではない。ほんとうのブックガイドが求められるのは、先人たちの読み直しの大業からなる著作についてである。ガイドとは先人の読み直しの跡にしたがって、私たち自身が読み直すための導きである。このガイドにしたがって読む書目の多い寡ないが問われることではない。それは一冊でもよい。読むことが、世とともに己れを読み直すことでもある体験を、このブックガイドによって多くの人びとがもたれることを私は切に望みたい。


一冊の本を読み込み、何度もページを開くことは、その本をよりよく読むために必要な営為であると同時に、読み直すつど自分の理解の限界を確認することでもある。「教養主義的書目」と呼ばれる書物も、もともとはそうした再読に値する作品として提示されたのではなかろうか。そのリストのどれだけを「読了」したかを競う態度がいまでも健在なのかどうかおぼつかないけれど、その状態を脱さない読書はたしかに虚しい。でも初期の動機としては悪いことばかりでもない。いったんはそのようにして読書対象となる書目の幅を広げてみることも、一冊の本をくりかえし読むことと同様に肝要なことではないかと思う。


そのさいブックガイドは商業主義的な意図であろうとそうでなかろうと、読者を書物へ〔いざな〕うことが主要な任務である。書目の一覧を眺めた段階で「おや?」と思わせる本書はそういう意味でも成功しているようだ。


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青土社 > 『ブックガイド日本の思想』
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子安宣邦のホームページ
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