野菜のひみつ



いまよりも、さらにものを知らなかった学生の時分、福岡正信『無』三部作(春秋社、ISBN:4393741447)を読み、自然農法という農法があることを知った。


といっても農業に関心があったのではなくて、「無の哲学」と題された第2巻で展開される西欧哲学批判を読もうと思ってのこと(そう、同書は農書であると同時に哲学書でもあるのだ)。


農業についてなにも知らなかった私は、農作物とは肥料をやって各種の農薬を使ってつくるものだと思っていた。それだけに、福岡が唱える「無耕、無肥、無農薬、無除草」という自然農法がたいそうラディカルなものに見えて、たまげたことを覚えている。



先だって朝日出版社から刊行された『自然の野菜は腐らない』を読みながら、十数年前に感じた驚きを思い出した。


著者は、「ナチュラル・ハーモニー」という屋号で、自然栽培野菜の販売を手がける河名秀郎氏。本書では、自然栽培による野菜の特徴をさまざまな角度から紹介している。


なにより書名に驚く。


自炊をする人なら経験があると思うけれど、スーパーマーケットなり八百屋で買ってきた野菜は、冷蔵庫に入れても日が経てばしおれて、やがて腐ってゆくものだ。腐らないなんてことがあるのだろうか? だなんて疑問にとらわれて、つい引き込まれてしまう。


本書で言う「自然栽培」とは、肥料を供給しない農法のこと。化学肥料はもちろんのこと、有機肥料も使わないという意味だ。「野菜が虫や病気に脅かされる原因は、施された肥料にある」とは、逆転の発想と言おうか、「常識」のちゃぶ台返しと言おうか、門外漢はただ驚くばかりである。


この考え方に従えば、

肥料の供給⇒虫害発生⇒農薬散布


という循環があるということになる。



加えて、自然栽培では「虫や微生物が集まってくるのは弱った植物を土に還すため」(このくだりを読んでつい『風の谷のナウシカ』を想起する)と見て、栽培を考えなおすというのだから、虫害の解釈は農薬散布と真逆である。


これは、19世紀に始まる農薬使用による農業の近代化に対する見直しの作業であり、もう少し言えば、短期間での収量増加を目指す短期的な合理性に対して、もっと長いサイクル、土壌や野菜やそれを食す人間の健康までを視野に入れた広い範囲で農業を考える、長期的な合理性を対置する試みだ。複雑に絡み合う存在者たちの諸関係を広く視野に収めるという意味では、まさにエコロジカル(生態論的)な発想である。


さて、驚くべきは書名にも示された「腐敗実験」の結果だ。著者は、自然の植物が枯れ朽ちてゆくのに、なぜ畑で採れる野菜は腐って溶けてしまうのかという疑問から、さまざまな育て方をした野菜を腐敗させる実験を試みている。この着眼が面白い。というよりも、ぼんやりとしている私などは、言われてみるまで考えてみたこともなかった。


本書では、自然栽培した野菜、有機栽培した野菜、一般栽培した野菜の三種類をビンにつめて行った実験の様子が紹介されている。これらの野菜が時間が経つにつれて、どのように腐ってゆくかというわけだ。


結果はどうか。有機栽培のものから形が崩れて腐りはじめ、一般栽培のものがそれに続き、自然栽培の野菜は形をとどめたまま腐るというよりは発酵する傾向があるという。また、肥料の種類によって腐り方や腐敗臭も異なるという指摘も、シロウトには驚くべきものだ(本書を読みながら驚いてばかり)。


腐敗も発酵も、「微生物が有機物を分解する」プロセスだけれど、両者は人間に役立つかどうかで価値が異なっている。筆者は、自然栽培の野菜は発酵菌が好む環境なのではないかと推測しているが、これは説得的だと思う。


こうした考え方の中心には、自然に対する傾聴とでも言うべき向き合い方がある。それを著者は「自然尊重」「自然規範」「自然順応」という言葉で表している。要するに、人間は自然の中で生かされているという意識と共に、自然の摂理(規範)を学ぶ姿勢を持ち、環境に無理を強いて効率を優先するのではなく、自然に生じる出来事に順応しながら対応することである。


言えば当たり前のことのようでいて、実際にはけっして簡単なことでもないことは、ここしばらく取りざたされていた食品の安全を巡る騒動や、遺伝子組み換え食品に関する議論を思い出すだけでも分かるだろう。というより、日々スーパーマーケットやコンヴィニエンスストアで食品を手にするつど、感じることでもあるにちがいない。


とはいえ、それではどうしたらよいのかと思うと覚束ない。それを見越している著者は、いやいや、できるところからでいいんですよ、と実にざっくばらん。


思えば、私たちは自分の身体を使って、気長な実験をしているようなものだ。毎日のように大半はなにがどうなっているのかわけのわかっていないものを次々と口にしながら、身体を代謝させ、姿形を変化させている。


本書は、一部でもいいから、もう少しだけわけがわかったものを食べる生活に戻ってみないかと呼びかけている。ところどころリリカルに筆が走っていて、「ほんとですか−?」と思わず眉に唾したくなるようなくだりもあるけれど、筆者の実践に裏打ちされた本書の理路にとって瑕となるほどのものではない。結果的には、文体からにじみ出る著者の人柄(と著者近影)も相まってか、こちらもついその気になってくる。


最後に、たまさか本書と同時期に読んだゲーテの言葉を連想したのでここに並べておこう。


活発な観察を行うように促された人間が自然との戦いに堪えうるようになると、彼は最初、さまざまな対象を屈服させようとする抑えがたい衝動を感ずる。しかし、それも長くは続かず、それらの対象が非常につよく彼に働きかけてくるので、彼はやがて素直に、それらの力を承認し、それらの及ぼす作用を尊重しなければならないと思うようになる。この相互の影響を納得すると、彼は二つの無限なものに気づく。それらの対象については、存在と生成および生動して交差する諸関係の多様性、また自分自身については無限の自己完成の可能性である。このために彼は、自分の感受性と判断能力をますます新しい形の受容と反作用に適応させていけばいいのである。これらの状態は大きな満足感をあたえ、内面および外面のさまざまな障害が完成に至る心地よい道の邪魔をしなければ、人生の幸福を左右するであろう。

ゲーテ「形態学序論」(『ゲーテ形態学論集 植物篇』、木村直司編訳、ちくま学芸文庫、2009/03、pp.23-24)


これは、もっぱら自然を観察して理解しようという自然科学者の話だけれど、自然における「諸関係の多様性」を視野に収めた上で、それを尊重しながら植物(野菜)を育て、食すという本書の趣旨と、見事に一致しているように見える。


⇒ナチュラル・ハーモニー
 http://www.naturalharmony.co.jp/


朝日出版社
 http://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255004587/