寝転びながら『千のプラトーを読む』 02


*2010/09/11 19:30 誤記に訂正を施しました。


前回は、冒頭の2文を読んだところで終わりました。著者は二人で『アンチ・オイディプス』を書いたのだけれど、二人がそれぞれ数人だったから、二人と言いつつも多数だった、という不思議な書き出しです。


続いて、どのように「この本」を書いたのか、著者の名前をどう扱ったのか、ということが書かれています。文章を見てみましょう。

この本では、いちばん手近なものからいちばん遠くにあるものまで、なんでも手当たりしだいに利用した。
Ici nous avons utilisé tout ce qui nous approchait, le plus proche et le plus lointain.

(上巻、p.15/原書、p.9)


「この本(ici)」は、どの本を指しているのか。素直に読めば、『アンチ・オイディプス』ですが、「この」という語から、「この本」=「いま手にしているこの本」=『千のプラトー』という連想も働くかもしれません。


それはさておき、ある本を書くときに、「なんでも手当たりしだいに利用」する、とはどういうことか。


そのつもりで、他の書物を見てみると、じつは「なんでも手当たりしだいに利用」していない書物のほうが、圧倒的に多数です。


しかし、いわゆる哲学や思想の書物と分類される『アンチ・オイディプス』が、文学とともに文章の実験場の一つである哲学・思想書のなかでも、やはり異例の佇まいを見せていることは確かです。彼らが言うように、小説、哲学、数学、科学、芸術、その他、なんでもかんでも一切合切利用して書かれていることは、あの書物を繙いてみた読者なら実感したことでしょう。


逆に、学術論文や研究者によるモノグラフなどでは、「なんでも手当たりしだいに利用」していることはあまりありません。むしろ、逆に、素材を厳選して、論文なり本のテーマに強く関連したものを利用しているように見えます。


だから、厳選する方法に馴染んでいる人の目には、ひょっとしたらなんでも使う流儀は、へんてこなやり方に見えるかもしれません。「もっとちゃんと選べよ」とか、「なんで関係ない分野のものを並べてるの」とか。といっても、これは私の空想なので、実際にそんなことを言う人があるかどうかはまた別です。


こんなふうに考えると、この、なんでも使う/厳選して使う、という二つのやり方は、一見対立するもののようにも思えます。


でも、少し立ち止まって考えてみると、両者は対立するというよりは、線の引き方が違うだけだと言うこともできそうです。本当は、なんでも使えばよいところを、厳選して使う場合には、なんらかの基準や規則によって、使うものと使わないものとを選別しているわけです。つまり、「厳選して使う」という態度は、「なんでも使う」の特殊な場合だと見なせます。


もし、こう考えることが、それほど的外れではないとしたら、むしろ問われるべきは、厳選して使う場合の「厳選」あるいは「選択」の基準そのもの、あるいは、その基準を採用する書き手の考えそのものであるようにも思えてきます。


ドゥルーズガタリが、「リゾーム」(『千のプラトー』序)において、わざわざこのようなことを書いておこうと考えたのは、「なんでも手当たりしだいに利用」するやり方が、必ずしも一般的ではない、という事情を反映してのことかもしれません。もしこのやり方が、言うほどのこともない、至極当然のやり方であるなら、わざわざこのように書くこともないだろうからです。


もう少し先まで進もうと思いつつ、またしても1文で躓いてしまいました。


しかし、書物は冒頭に近いほど、躓くものでもあろうかと思います。なぜなら、その書物についての知識がゼロの状態から、1文ずつ読み、それがどのようなものであるのかを探る状態だからです。


読み進めてゆくと、それまでに、自分の脳裏を通過した著者の言葉の量、文章のサンプルが増えてゆき、躓くポイントが減ってゆくという読書体験も少なくありません。


ただし、哲学書の類では、結局最後まで躓きっぱなしということも少なくありませんから、油断はできません。もっとも、この連載では、愚直に読み、素直に躓くことを趣旨としているので、それでよいわけです。


(つづく)