科学のアンソロジーを考えてみる(1)



 ときどきアンソロジーを編んでみたいものだなあという空想をします。古典ギリシア語に、アンソロギア(ανθολογια)という言葉がありますが、これは「花を集める」という意味です。あちこちから花を摘んで花束にするように、言葉を集めるということでしょうか。


 なんのアンソロジーでもいいのですが、今回は科学のアンソロジーについて考えてみます。


 世の中には、本人が書いたものはあまり読まれているふうでもないのに、その名前と業績だけは大変よく知られている人物がいます。自然科学の領域で考えてみると、アイザック・ニュートンなどは、その最たる例かもしれません(とかいって、みんなニュートンをバリバリ読んでいたらごめん)。


 あるいは、ガリレオ・ガリレイでも、ケプラーでも、ハレー(ハレー彗星に名を残す)でも、ラヴォアジエでも、誰でもいいのですが、これらの人びとの業績については、広く知られているものの、それでは彼らが書いたものを読んだことがあるかと言えば、なかなかそうもいかないような気がします。


 これまたエエ加減なことを言うと、我が邦におけるこうした一種の「いいとこ取り」殺法は、近くは明治期の欧米近代科学の移入で大々的に行ったことでもありましょう(古くは大陸からの学術移入もそういうものだったかと思います)。要するに、欧米に留学生を送り込んで、帰国後はその学んできたことのエッセンスを帝国大学で教えるという仕組みです。


 これまで積み上げてきた経緯はともかく、いま最も先端的な科学はこういうものだ、という要領のいい要約によって、間は端折っていいところを摂取する。これは一見たいそう合理的です。でも、それでうまくいくことと、うまくいかないことがあるように思います。


 うまくいくことの例としては、技術的な応用があるでしょう。どうしてこういう発見に至ったか、どうしてこういう知識が得られたかはともかくとして、それが正しい知識であるなら、その知識に基づいて一定の働きを実現する装置や仕組みをつくることができる、というわけです。仕組みも経緯も分からんが、パソコンでネットを使うというのも、これに似たことこかもしれません。


 うまくいかないことの例としては、ものを考える習慣が身につきづらいかもしれない、ということがあります。なにしろ、教科書には先人たちが見つけた科学知識がたくさん載っていて、「ともかくこれを覚えなさい」というわけですから、自分で考えるまでもありません。それよりは、公式を暗記して、例題の計算をうまく解けたほうが、入試にも有利です。つまり、考えないこと、ショートカット推奨です。また、このやり方だけを採用すると、「なんでこんなこと勉強しなきゃいけないの?」といった子どもの立場としては当然の疑問にも答えづらくなります。なにしろ、どうしてそんなことになったかという経緯を端折るわけですから。


 (もう20年以上前のことになりますが)私が、中学や高校の科学の教科書を読んでみて、いつも不満だったことは、「どうしてそうなった」ということが省かれていることでした。結果として磨き上げられた公式や法則がドーンと出てきて、そこに辿り着くまでの試行錯誤や失敗の痕跡は滅多に見せてもらえません。


 そこで書店や図書館で本を探すことになります。いまと違ってネットはこんなに普及していませんでしたから使えませんでした。近所の書店にある科学書といえば講談社ブルーバックスです。私は中高生の時分、この叢書をむさぼるように読みました。読んで分かることもあれば分からないこともありましたが、教科書には書かれていないことがいろいろ出てきますから、その点ではうれしいわけです。でも、それでも不満は残ります。


 それは何かというと、「それで結局ニュートンという人は、実際にどんな文章を書いたのか」ということでした。解説書は、当然のことながらあくまで解説ですから、原典ではないという意味では教科書と同様です。でも、結果的には「ああ、この人が書いた文章そのものを読んでみたいものだ」という渇望感をかき立ててくれたという意味でも、解説書にはお世話になったのだと思います。



 その後、科学書の原典を翻訳したものに出会うようになり、目にするつど手に入れて読んできましたが、どうも書店を見ていると、いつでもそうした科学の名著が揃っていて、手に取れるという状態ではないことにも気づきました(殊に日本語で読めるものは)。中央公論社「世界の名著」の数巻、岩波文庫の青帯のごく一部、とりわけ朝日出版社の叢書「科学の名著」は、そういう意味で非常にありがたい企画でしたが、学生の身ではとても揃えられず、そうこうするうちに品切れとなって久しいものです。比較的最近では、筑摩書房から刊行されているちくま学芸文庫に科学書と数学書を扱うシリーズが登場して、現代に近い科学書、数学書は、少し手に入れやすくなりました。自分が中高生の頃にこんな文庫シリーズがあったらなあと思うようなもので、出る端から手にしています。


 もちろん、出版も書店も商売ですから、名著の誉れが高い本だからといって、それだけの理由でいつでも書店店頭にそうした書物を揃えておくわけにもいかないのかもしれません。でも、もそっとだけでいいから、過去の科学者たちが書いたものにアクセスしやすいような状況があってもいいんではないか、などと思ったりもします。


 やはり、どんな文体で、どんな議論の運びで、誰とどんな喧嘩や議論をしながら、ああした科学の認識を記したのか、ということに、(翻訳を介してであれ)直に触れてみる楽しさは、得難いものだと思います。また、無味乾燥な公式や法則も、そこへ至る思考の歩みを知ることで、ぐっと身近にも感じられるはず。


 そこで、科学書や論文の原典からの抜粋で構成されたアンソロジーを、改めてつくれないものだろうかと空想する次第です。いえ、現にそうした書物は、これまでにも編まれてきましたが、それらを念頭に置きつつ自分ならどうするかと考えてみたいというわけです。空想するだけならタダなので、つらつら考えて参りたいと思います。最終的には、その空想上の科学アンソロジーの目次ができあがればと念じています。既存の類書についても、ご紹介して参りましょう。