私がはじめて三浦梅園(1723-1789)を知ったのは、たぶん「日本の名著」(中央公論社)を集め読んでいる最中だったと思う。
いずれも抄録ながら『玄語』『贅語』を収めた『中公バックス日本の名著20 三浦梅園』(1984; 私が手にしたのは1996年の再版)を手にして、梅園による一種のコスモロジーともいえる認識論と存在論に驚いた。
それと同時に、同書につけられた300ページ近くもある「解説」にたまげた。それは編者の山田慶兒氏によるもので「黒い言葉の空間――三浦梅園の自然哲学」と題されていた。
後に単行本として刊行された『黒い言葉の空間――三浦梅園の自然哲学』(中央公論社、1988)の「後語」で、山田氏は「日本の名著」について、こう述べている。少し長くなるけれど、ここには読むという営みの凄まじさが表れており、丸ごと味わっていただくのがよいと思う。
この巻の編集を引き受けたのは一九六八年、あたえられた解説の紙数は一二〇枚であった、と記憶する。梅園の哲学的主著『玄語』にはじめて取り組んだときのことをわたしは決して忘れないだろう。初期の著作やかれがみずからの哲学を解説した書簡などはむろん読んでいた。だが、そんな準備などあざ笑うように、『玄語』はわたしのまえに立ちはだかった。『玄語』の序論にあたる「本宗」の初端から、一つのセンテンスも正確な意味が摑めないのだ。語句をあれこれ解釈し、そのセンテンスだけはなんとか理解できたと思っても、アド・ホクな解釈はつぎのセンテンスで跳ね返されてしまう。終りのない繰り返しである。そんなシジフォスの労働に長く耐えられるものではない。わたしは疲れはて倦みはてて、まもなく『玄語』をほうり出してしまった。わたしの眼には、『玄語』は解説不能な、そのかぎり無意味な、ちんぷんかんぷんの尨大な文字の塊、と映った。そのときから『玄語』を読むことは暗号読解の作業に変わった。なんどめの挑戦であったか。気をとりなおして『玄語』を手にしたものの、いささかの手掛かりもあたえてくれぬ文章はむしろおぞましく、寝ころんで図だけを眺めてゆくうちに、多数の図が、ただ一つの例外をのぞいてすべて、二面体群の構造をもっていることに、わたしは気づいた。それは思考法の表現であるにちがいなかった。そう思って文章に立ち返ってみると、ちんぷんかんぷんの羅列のなかに、ときおりきわめて明晰なセンテンスが嵌めこまれている。そのささやかな発見が解読の最初の糸口であった。だからといって、その後の解読の行程がそれほどなめらかに運んだわけではない。思考法よりいっそう困難なのは、概念の世界の解読であった。わたしを惘然と立ち竦ませた概念は、その外延的定義がじつは図によってあたえられていること、『玄語』の言葉は、そのように定義された概念と概念間の関係を記述する概念とを用いて書かれた、一種の人工言語であること、それを読み解く鍵は『玄語』冒頭の「例旨」に与えられていることを完全に理解するまでには、長い時間が必要であった。ついに解説の執筆にとりかかったのは一九八〇年八月初、不慮の災害による二ヵ月の中断をはさんで、稿了は八一年五月末。じつに十三年ぶりに、七倍に近い分量の原稿を渡して、ようやく中央公論社への約束を果たしたことになる。原稿が活字になってのち、わたしはずっと書き足りなかったことがあるという思いを引きずってきた。ところが、その機会をあたえられてみると、筆を加える余地はない。八ヵ月という凝縮された執筆の時間が、多くの欠陥をふくんだまま、ひとつの作品として完結させてしまっていたのである。ここでは事実の誤りを正し、不十分な表現を補いあるいは削るという、最小限の変更にとどめた。
(同書、388-389ページ)
翻訳などをしていると、ときおり(いや、しばしば)同じような絶望を感じることがある(梅園を読解するのに比べたら大袈裟な言い方かもしれないけれど)。書き手がなにを言おうとしているのかまるで分からず、単語や文の単位では分かるように感じても、その連なり全体では意味が分からない、というふうに。要するに、その文を理解するために必要な文脈をつかめないとこういう苦心をすることになる。
読みようによっては、『〆切本』(左右社)に掲載されてもよい文章かもしれない。というのは半分冗談だけれども、おかげで梅園の著作に接近する大きな手掛かりが与えられたのは、私たちにとって誠に幸いなことであった。
先日、ゲンロンカフェで行った三中信宏先生、吉川浩満くんとの鼎談中、三中先生が提示したスライドに、この梅園の本からとられた込み入った図があった。梅園はまさに図と文を併用しながら思考を展開したわけで、それについては梅園を読解した山田慶兒氏の『黒い言葉の空間』でも検討されている。
梅園による図の例はこんな具合である。
と、以上は三浦梅園の思想内容についての話ではなく、それを読解した山田慶兒氏の言葉をご紹介したいと思って書いたのだった。
なぜそんなことをしようと思ったのかといえば、藤原書店から出た山田氏の新著を落手して、そういえばと思い出したのである。
★山田慶兒『日本の科学――近代への道しるべ』(藤原書店、2017)
ときどき、幕末から明治にかけて西洋から科学を移入する前は、日本には科学はなかったと言われることがある。実際はどうか。本書は、山田氏がさまざまな機会に発表した文章を集めた論集である。
まえがき
I 二つの展望
十八、九世紀の日本と近代科学・技術
日本と中国、知的位相の逆転のもたらしたもの
II 科学の出発
飛鳥の天文学的時空――キトラ『天文図』
日本医学事始――『医心方』
III 科学の日本化
医学において古学とはなんであったか――山脇東洋
反科学としての古方派医学――香川修庵・吉益東洞
現代日本において学問はいかにして可能か――富永仲基
IV 科学の変容
中国の「洋学」と日本――『天経或問』
幕府天文方と十七、八世紀フランス天文学――『フランデ暦書管見』
見ることと見えたもの――『米欧回覧実記』他
〈補論〉浅井周伯養志堂の医学講義――松岡玄達の受講ノート
あとがき
初出一覧
日本の科学史については、以前『考える人』(新潮社)の特集「日本の科学者100人100冊」に取り組んだ際、何冊かの好著に出会った。機会を改めてご紹介しよう。