先日、思いつきで「冒頭拝見」という試みを始めてみました。或る書物を手にとって、その1ページ目をともかくじっくり読んでみようという次第です。
フランスの文学者エミール・ファゲは、その『読書術』(石川湧訳、中公文庫、2004、ISBN:4122043700)のなかで、本を読むコツは、ともかくゆっくり読むことだ。そして次にはゆっくり読むことだ、と強調していましたが、それを地でいってみようというわけです。
そのためには、一文一文を読みながら、読み手の脳裏にどんな連想や記憶が去来したか、どんなふうにその文章を味わったかということを記述してみるのが適当だろうと思い、これにとりかかっています。
前回取り上げたのは、G. K. チェスタトンの『四人の申し分なき重罪人』(西崎憲訳、ちくま文庫、2010/12、ISBN:4480427791)でした。1ページ目のほぼ前半を読み終えたところで終わっていましたので、今回は後半を読んでみることにします。
いま一度、冒頭部分を掲示する。御用とお急ぎでない読者は、ぜひここでちょっと立ち止まって、以下に続くチェスタトンの文章(西崎憲氏による訳文)を、じっくり味わってみていただきたい。
新聞記者のプロローグ
シカゴ・コメット紙のエイサ・リー・ピニオン氏はアメリカの半分を横切り、それから大西洋の全部を横切って、ついにピカデリー・サーカスへと至った。令名高き、あるいは悪名という見方もあるが、ともかくも著名なるラウル・ド・マリラック伯爵の跡を追っていたのである。ピニオン氏はいわゆるネタなるものを手に入れたかった。自分の勤めている新聞に用いるためのネタである。結局、喜ばしいことにネタはピニオン氏の手に落ちた。しかし氏はそれを新聞記事にすることはなかった。氏が入手したそれは天翔る彗星【コメット】にとってさえもあまりに屹立しすぎていたのである。おそらくこの比喩はいくつかの意味において正しいだろう。ピニオン氏が聞いた話は教会の尖塔ほど、さもなくば星々に届くほど高かった。信憑性と同様に、それは理解力をも超越していた。ピニオン氏は読者の不評をあえて招くような真似はしないことにした。しかし、より高貴で崇高で、聖者のごとく疑うことを知らない読者のために書いている筆者は、ピニオン氏の沈黙に倣うことはしないつもりである。
前回は、ピニオン氏がネタを手に入れたものの、記事にしなかったというところまで読んだ。その続き。
読み手としては、「え?」と不意を突かれるところ。だって、アメリカからロンドンまでネタを追いかけるほどの手間をかけておきながら、いざネタが手に入ったら使わないというのだから。一体全体何があったのか、と思う。続きに目を向けると、こうある。
氏が入手したそれは天翔る彗星【コメット】にとってさえもあまりに屹立しすぎていたのである。
(ただし、【コメット】は「彗星」へのルビ)
一瞬、「なんだなんだ?」とめまいを覚える。先に述べたような期待を抱いていただけに、そして、ここまでのチェスタトンの筆致が実にあっさりと物事の結末を述べてきただけに、急に現れる彗星に目が眩んでしまう。肩すかしを受けたと言ってもよい。
本を読んでいると、目だけは文章を追い終わるものの、頭のほうが付いてこないなんてことがある(哲学書ではしょっちゅう)。ここで私は、もう一度この文章を読み直した。
氏が入手したそれは……
「ピニオン氏が手に入れたネタは」ということだね。ふむふむ。と、自分の言葉に置き換えながら読む。
……天翔る彗星【コメット】にとってさえも……
「ピニオン氏が手にしたネタは、ピニオン氏ならぬ彗星――天を走る彗星――にしてみたって」と、ここで頭が付いてゆけなかった理由が腑に落ちた。このつながりが、私の貧しい想像力を超えていたのであった。しかも、「彗星」は、非常にはっきりと脳裏にその姿をイメージさせる。パステルで描かれた長くきらめく尾を引いた帚星が思い浮かび、私の頭は勝手に稲垣足穂の小説を連想してしまう。
気を取り直して続きを読む。
……あまりに屹立しすぎていたのである。
なるほど。これはメタファー、喩えだ。しかしそれにしたって、新聞記事のネタが、彗星にとっても高すぎるほど屹立していたとは、どういうことか。私の脳裏では、地球とロンドン辺りから天空に向けて屹立する長大なモノリスのような抽象的でもあるような物体、そして、そのモノリスめいたものの頂上よりだいぶ下の辺りを彗星がさーっと横切ってゆく絵が現れた。だが、もちろん新聞のネタとはモノリスではない。しかし、ちょっと落ち着いてみると、「ああ、そういうことか」と分かる。どうしてルビを振ってあるかということも含めて。
原文はどうか。
It was too tall a story, even for the Comet.
冒頭から直訳すれば、「それ〔そのネタ〕は、どうにも高すぎる話だった、彗星【コメット】にとってさえも」となるだろうか。
ピニオン氏の勤務先を記憶している読者なら、ここで登場する「コメット」が、「シカゴ・コメット」でもあると読めるだろう。原文では、Cometとイタリックになっている。これは、前回見た冒頭のChicago Cometというイタリックと呼応している。ただし、「彗星」という言葉のほうに気を取られると、ルビの「コメット」のほうを見逃してしまうかもしれない。
そう思って考えると、tallには「法外な」とか「とっぴな」とか「ありそうもない」という意味もある。つまり、この文章は、ここまで展開されてきたピニオン氏の言動の延長上で読むなら、こんなふうにも読める。
そのネタは、コメット紙にとってさえ、あまりに突飛なものだったのである。
そしてもちろん、西崎氏の訳文は、こうした意味をも含んだかたちでつくられている。
氏が入手したそれは天翔る彗星【コメット】にとってさえもあまりに屹立しすぎていたのである。
では、こうした(少なくとも)二重の意味をもった表現を持ち出して、チェスタトンはなにを言おうとしているのだろう。続きを読んでみよう。
おそらくこの比喩はいくつかの意味において正しいだろう。
この「書き手」自身が、これが「比喩」であることを述べて、それが適切であることを請け合っている。書き手が、チェスタトン本人なのか、小説内の誰かなのかは分からないけれど、ともかくその語り手の意見が表明されている次第。同じ箇所を、チェスタトンの原文は、こう記している。
Perhaps the metaphor is true in more ways than one,
英語の語順で記せば、「おそらくこの比喩は正しい、いくつかの意味において」となろうか。そして、邦訳ではここでいったん句点を打ち、原文ではカンマでつないでいる。今度は、続く英文を先に見てみよう。
and the fable was tall like a church-spire or a tower among the stars: beyond comprehension as well as belief.
おお、先に持ち出された比喩を使っているようだ。ネタの「ありそうもないこと(tall)」と、塔の「高さ(tall)」とが掛け合わされて、そのことが視覚的に天地の高さでイメージされるように仕組まれている。ただ、よく読むと、ぼんやりしている私などには、ちょっとよく分からないところがある。少し込み入ったことになりそうなので、いまはここまでとして、次回検討することにしよう。
⇒作品メモランダム > 2011/04/05 シカゴ・ロンドン間も一文で
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20110405