アウグスティヌスを引用するドロシー・L・セイヤーズを引用するアラン・チューリングについて

最近、アラン・チューリングの「知能機械」を読んでいて気がついたことがあった。

といっても、たいしたことではなく、いずれかといえば些末でことさらなにかを言うようなことでもない。

ただ、気になる人には気になることでもあるようにも思うので、ここに記しておこう。あるいは既知のことかもしれない。

「知能機械」の翻訳は『コンピュータ理論の起源[第1巻] チューリング』(伊藤和行編、佐野勝彦・杉本舞訳・解説、近代科学社、2014)所収のものを読んでいる。解説もついて大変便利でありがたい本だ。原文のほうはネット上でPDFが手に入る。

同論文の冒頭で、チューリングは「機械が知的な振る舞いをしてみせることがありうるかという問題」について検討しようと述べている。そして、考えられる反論を5種類並べてみせる。

その一つに、機械というものはとても簡単な仕事を反復するものだ(だから知能機械などありえないでしょ)という反論がある。そのなかでチューリングは、そうした意見の例として、ドロシー・L・セイヤーズのThe Mind of the Makers(1941)という本を引用している。

ドロシー・L・セイヤーズといえば、ミステリ作家として日本でも愛読者をもつ人だが、同書は小説ではなく宗教エッセイといった内容の本である。書名を訳せば『神の御心』とでもなろうか。

チューリングは、セイヤーズの本から次のように引用する。

文章A:

「宇宙を創造した神が、いまペンのキャップを回して閉じ、足を暖炉の前飾りの上において、仕事がひとりでにうまく進むにまかせるのを思い浮かべる」

(前掲書、p. 121)

セイヤーズの本からの引用はここで終わって、続けてこんなふうに書いている。

文章B:

しかしながら、これはむしろまったく存在しないものから組み立てられた、聖アウグスティヌスの比喩的表現か謎めいた言い回しの範疇に入る。創造者が手をひいたとき、ひとりでに多様化がおこるような創造について、我々はまったく知らない。この考え方は、神が単に巨大な機械を創造し、燃料がなくなって止まるまで動くにまかせるというものである。これは曖昧な喩えの別形である。我々は自発的に多様性を生み出すような機械を経験で知っているわけではないからである。機械の本性とは、動き続けるかぎり同じことを何度も行うことなのである。

(前掲書、p. 121)

素直に読むと、文章Bはチューリングが書いたように見える。私も以前はそう読んでいた。

ただ、今回ゆっくり精読してみて気がついたことがあった。もしこの文章Bがチューリングによるものだとしたら、「聖アウグスティヌスの比喩的表現か謎めいた言い回しの範疇」という表現はいかにも唐突で、それこそ謎めいている。文章B全体にもなんとなくちぐはぐした感じが残る。

そこで原文を見てみると、たしかに該当する箇所に引用符がある。下図で赤丸をつけてみた。

図1

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ただし、ここで見ている原文では最後の行にも再び引用符が使われていて、ここもセイヤーズからの引用のように見える。これはなんなのか。

結論から言うと、チューリングがセイヤーズの本のタイトル The Mind of the Maker を示した直後、最初の引用符に始まる "... which imagines that God"から、この段落の最後の"... it keeps going"までの全体が、ドロシー・L・セイヤーズの本からの引用なのだった。

そうであれば、先ほどの「聖アウグスティヌス」云々の話も腑に落ちる。

というのも、セイヤーズは同書で聖アウグスティヌスの『三位一体論』の英訳から文章を引用していて、そのなかに"But it has drawn no words whatever, whereby to frame either figures of speech or enigmatic sayings, from things which do not exist at all."という一文がある。

ここでアウグスティヌスは、聖書は実在するものをもとに書かれているが、それに対して世の中には実在しないものに基づいて書かれた言葉もあると言っている。それが"figures of speech or enigmatic sayings"で、「比喩表現や不可解な物言い」と言い表されているわけである。

チューリングが引用していたセイヤーズの文章は、いま眺めたアウグスティヌスの引用を前提としたものだった。

以上を踏まえて、チューリングが「知能機械」で引用した箇所を訳すとこんなふうになるだろうか。

こうした態度についてはドロシー・セイヤーズが次のようにとてもうまく表している(『神の御心』、p. 46)「……こんな場面を思い浮かべていただきたい。〔私たちは世界を創造するもの書きになぞらえて〕宇宙の創造を終えた神が、ペンの蓋を閉めて、足をマントルピースに投げ出し、自分がこしらえたものをなるようにしておくという、そんな場面だ。だがどうだろう、このような場面は、それこそ〔先に『三位一体論』から抜粋して読んだように〕聖アウグスティヌスのいう、まるで実在しないものに基づく比喩表現や不可解な物言いの類ではないだろうか。なにしろ私たちは、創造主が手を離したあと、自分で変化していくような被造物など見たことがないのだから。先ほどの想像は、言うなれば、神が途轍もない機械をお造りになって、それが燃料切れになるまで動き続けるままにした、と言っているようなものだ。これもまた曖昧なアナロジーというものだ。なぜなら、私たちは自発的に変化していくような機械など、まるで見たことも聞いたこともないのだから。機械とは、可能な限り何度でも繰り返し同じことをするものなのだから。」

文頭と文末に括弧をつけたのは、ここからここまでがセイヤーズの本からの引用である旨を示すためである。また〔〕は山本が補足した言葉。

チューリングは、この論文を生前に刊行しなかったとのこと。Turing Digital Archiveというウェブサイト(http://www.turingarchive.org)でタイプ草稿が公開されている。該当箇所を見ると、こうなっていた。

図2

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ここでも引用符に赤丸をつけてみた(ちょっと見づらいかもしれない)。たしかにチューリング自身も、"to get on with itself."の後ろに引用符を入れている。ただし、最後の"it keeps going."の後ろにもやはり引用符を入れている。

おそらく、"to get on with itself."直後の引用符はタイプミスなのだと思われる。

念のため、手元にあるCollected Works of A. M. Turing: Mechanical Intelligence (Edited by D. C. Ince, North-Holland, 1992) の該当ページも見てみたが、図1と同じように引用符が入れてあり、特に注釈などはついていなかった。

他の刊行された版は確認していないので分からない。

以上は、だからどうしたということではあるが、チューリングの論文中に、ドロシー・L・セイヤーズからの引用文があたかもチューリング本人による文章であるかのようにみえる箇所があることを示してみた。

 

★近代科学社 > 『コンピュータ理論の起源[第1巻] チューリング』(伊藤和行編、佐野勝彦・杉本舞訳・解説、近代科学社、2014)紹介ページ
 https://www.kindaikagaku.co.jp/information/kd0454.htm

 同書の紹介ページ。正誤表を含むサポートページへのリンクもあります。