書物をゆっくり読むのは、存外難しいものです。小説であれば話の筋や展開が気になって、先を読みたい一心で、ついつい目が先へゆこうとするし、、そうでなくても書物の場合、最後のページと現在位置が目に見えて分かることもあり、ゴールを目指したい気持ちをそそられてしまうということもあります。
もっとも、いくら目ばかり早く動いても、頭がついてこなければ、あるいは腑に落ちなければ、それは読んだことにはならないわけですから、実際には書かれている文章の種類や内容によって、読む速度は違うのだろうと思います。
いずれにしても、書物をゆっくり読むのはいいものです。さっと読んでしまったのでは気づきようのないことを、たくさん見つけられます。喩えて言えば、さっさと読むのが道を車で走り抜けるようなものだとすれば、ゆっくり読むことは、同じ道をぶらぶら歩いてゆくようなものです。「同じ」道であっても、車か徒歩かで、目に入る風景は違います。ゆっくり歩いてゆくと、車の速度では見てとれないものが見えてくる次第。
さて、或る書物を取り上げて、その冒頭1ページをじっくり読む試みを始めたわけですが、チェスタトンの『四人の申し分なき重罪人』(西崎憲訳、ちくま文庫、2010/12、ISBN:4480427791)を読み始めて三度目となりました。1ページを読むだけなら、さっと終わるかなと思っていたのですが、やはりそういうわけには参りませんでした。
新聞記者のプロローグ
シカゴ・コメット紙のエイサ・リー・ピニオン氏はアメリカの半分を横切り、それから大西洋の全部を横切って、ついにピカデリー・サーカスへと至った。令名高き、あるいは悪名という見方もあるが、ともかくも著名なるラウル・ド・マリラック伯爵の跡を追っていたのである。ピニオン氏はいわゆるネタなるものを手に入れたかった。自分の勤めている新聞に用いるためのネタである。結局、喜ばしいことにネタはピニオン氏の手に落ちた。しかし氏はそれを新聞記事にすることはなかった。氏が入手したそれは天翔る彗星【コメット】にとってさえもあまりに屹立しすぎていたのである。おそらくこの比喩はいくつかの意味において正しいだろう。ピニオン氏が聞いた話は教会の尖塔ほど、さもなくば星々に届くほど高かった。信憑性と同様に、それは理解力をも超越していた。ピニオン氏は読者の不評をあえて招くような真似はしないことにした。しかし、より高貴で崇高で、聖者のごとく疑うことを知らない読者のために書いている筆者は、ピニオン氏の沈黙に倣うことはしないつもりである。
前回は、赤字部分までを読んでみた。チェスタトンは、ピニオン氏なる新聞記者の行動について、その起点と終点を短絡させながら紹介し、手に入れたネタを使わなかった訳について、彗星の喩えを用いたのだった。
さて、その続きである。ピニオン氏は、どうしてネタを使わなかったのか。
ピニオン氏が聞いた話は教会の尖塔ほど、さもなくば星々に届くほど高かった。
彼が耳にした話(ネタ)は、とても高かったと述べられている。これは、前回読んでみた比喩に乗っかった表現である。彼が手に入れたネタは、「天翔る彗星【コメット】にとってさえもあまりに屹立しすぎていた」のだった。シカゴ・コメット紙=彗星には高すぎるというわけで、その「高さ」をさらに具体化してみせたのが、この文章。
話はどのくらい高かったのか。教会の尖塔ほどにも高く、いやいや星々に届くほどでもあったという次第。現代の日本に暮らす身としては、ここで教会が登場するのはいささか突飛な感じがしなくもない。とはいえ、当時のイギリスで高い建造物といえば、教会の尖塔が連想されたのだろう、というふうに推測してみることはできる。実際、教会の尖塔を見てみると、なるほど教会建築のなかでも、その尖塔はことさら高く天を向かっている。さらには、「教会」がなにかの象徴であるとも考えてみたくなる。例えば、信仰心や道徳心といったものとして。しかし、それを超えて星々に届くほどにも高かったとは、どういうことだろうか。
前回、この部分の原文を掲げたのだった。それはこんな具合の文章である。
and the fable was tall like a church-spire or a tower among the stars:
西崎氏の見事な訳があるので、それを念頭に置きながら、文章の流れのままに直訳してみると、「そのお話は高かった。どのように高かったかと言えば、教会の尖塔のように、あるいは星々にも届く塔のごとくに。」とでもなるだろうか。fableを「お話」としてみたけれど、辞書に載る意味としては「寓話」や「作り話」である。前回見たように、tallは「高い」と同時に「途方もない」といった意味を持っていた。最前までは、storyと称されていたものが、ここでfableと言い換えられるのは、いまやその話がtallであると形容された後だからかもしれない。
いずれにしても、「話」の高さ=途方もなさが、さらに具体的な情景によって描写され、強調されている。ゴッホの「星月夜」のような絵も連想されて、脳裏ではすっかりピニオン氏から焦点が外れてしまいそう。とはいえ、ネタの途方もない様子が、地上にいるであろう人間から見て、天空の高いところにあるという視覚的なイメージが強烈に浮かんで、その途方もなさが疑似的な知覚として迫ってくる。
それを新聞に掲載できないということは、よっぽど途方もないのだろうか。あるいは、掲載したとしても読者にとても信じてもらえまいということだろうか。なぜ、ピニオン氏(あるいはそのボス)は掲載を見送ったのか。
信憑性と同様に、それは理解力をも超越していた。
これが次の文章だ。信憑性がないばかりか、理解力も超えている。それでは新聞に掲載するわけにはいかないというわけだ。世の中には、それでも掲載する新聞もあるわけだが、シカゴ・コメット紙はそうした新聞ではないということが裏返しに言われているようでもある。原文も覗いておこう。先の文章の末尾はセミコロンで、それに続くのはこんな文章。
beyond comprehension as well as belief.
「理解を超えていた。信憑性はもちろんのこと。」という感じであろうか。そこで話がピニオン氏に戻る。
ピニオン氏は読者の不評をあえて招くような真似はしないことにした。
以上のようなネタだったので、ピニオン氏はこう判断した。なるほど、と合点しそうになりつつ、実はまだ読者はチェスタトン(あるいはこの小説の話者)に焦らされていることも思い出す。そう、ここまで言われたら、いったいぜんたい、どんなネタだったのさ、と思うのが人情というもの。知りたい気持ちを抑えつつ、原文を見るとこうなっている。
Anyhow, Mr. Pinion decided not to risk his readers' comments.
Anyhowという単語、私としては「自然と口を突いて出るようになったらステキだなぁ」だなんて、つい思ってしまう言葉の一つなのだけれど、それはともかく。「まあ、とにかく」という感覚だろうか。「ピニオン氏は決めた。何を決めたかと言えば、敢えて何かを受ける危険を冒さないことを。何をかと言えば、彼の読者からのコメントを。」というのがこの英文の流れ。つまり、先に見た西崎氏の見事な訳文の通りで、ピニオン氏はそのネタを新聞に載せた場合、読者から寄せられるであろう文句を回避したわけだ。
次の文章がなんだか面白い。
しかし、より高貴で崇高で、聖者のごとく疑うことを知らない読者のために書いている筆者は、ピニオン氏の沈黙に倣うことはしないつもりである。
ここまでちらちらと気にかかる存在であった、この話の話者がここでしっかり顔を出した。この「筆者」の言う「より高貴で崇高で、聖者のごとく疑うことを知らない読者のために」という文言は、とても微妙な感じがする。一方では、読者からの文句を恐れるピニオン氏に対して、「おいおい、読者をそんなに莫迦にしたもんじゃないぞ」と言っているようにも聞こえる。「筆者は、読者諸子がこの話を変に疑ったりしないで受け入れるだけの器をお持ちだと思う」と言っているわけだけれど、これは裏返しになんとなく読者をからかっているようでもある。だって、「聖者のごとく疑うことを知らない」だなんて、それはそれで危なっかしいではないか。
というよりも、「筆者」殿は、恐らくここで選んでいる語彙とは全く逆のことを言っているのではないか、というのが偽らざる私の印象だ。つまり、「高貴で崇高で、聖者のごとく疑うことを知らない」とは、「下衆で俗っぽく、なんでも疑わずにはいない」というふうに。なにしろ、このミステリを手にしている読者は、間違いなく書かれていることを疑う気満々でページを繰っているだろうし、突飛でもなんでも面白そうなお話があると分かっているのに隠されたりしたら、いっそう知りたくなるほどには好奇心を持ち合わせているだろう。しかし、これは、それこそ勘ぐり過ぎなのかもしれない。
いずれにしても、「筆者」はピニオン氏のようにだんまりを決め込まず、話して聞かせますよ、と言っているわけである。
But that is no reason why the present writer, writing for more exalted, spiritual and divinely credulous readers, should imitate his silence.
これがその原文。文章の流れに沿って直訳風に日本語を並べてゆくと「だが、それは理由にならない。これを書いている筆者が、高貴で、崇高で、すばらしく信じこみやすい読者のために筆を執っているわけだが、ピニオン氏の沈黙を真似るべきであるという」というところ。やっぱり、"divinely credulous"のくだりは、皮肉に聞こえる気がする。しかも、どうかすると、ピニオン氏、読者、聖者の三つを同時に三重に揶揄しているようでもある。もっとも、ミステリを読もうという読者は、そんなことを言われようが、「いいから早く肝心の話に入って、入って!」と、そんなことは気にしていないかもしれない。
以上、3回にわたってチェスタトン(Gilbert Keith Chesterton, 1874-1936)の小説『四人の申し分なき重罪人』(西崎憲訳、ちくま文庫)の冒頭1ページをじっくり読んでみました。原書は、FOUR FAULTLESS FELONSという1930年に刊行された書物です。
これは私の場合だけかもしれないけれど、チェスタトンの小説を読もうというときには、いつも冒頭でちょっとまごついてしまいます。どういう性質のものかは自分のことながら分からないながら、ちょっとした退屈な気分を味わうような気がするのです。少し読み進んで話の状況が見えてくると、あとはもう、チェスタトンの撞着語法(oxymoron)の妙技を心ゆくまで楽しむばかりになるのに(これについてはまた別の機会に)、入り口のところでいま一つすっと頭に入ってこないことがあると言いましょうか。
今回の遅読で、その理由を少しだけ垣間見たような気がします。じっくり読めば、退屈どころか、実にしっかりと緩急をつけて、省くことは省き、強調すべきことは強調を施して、文章が組み立てられています(「そんなことは当然であろうが」と、チェスタトンに叱られそうですが!)。おそらく私はこれまで、そのチェスタトンの筆致を味わうには、いささか速く読み進めていたのだろうと反省した次第です。
次もまた、同様にして或る書物を取り上げて、その冒頭を読んでみたいと思っています。
⇒Project Gutenberg Australia > FOUR FAULTLESS FELONS
http://gutenberg.net.au/ebooks03/0300781h.html
グーテンベルクプロジェクト(オーストラリア)に原文の電子テキストがあります。
⇒作品メモランダム > 2011/04/14 その2:比喩を使って二重に物事を語る
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20110414
⇒作品メモランダム > 2011/04/05 その1:シカゴ・ロンドン間も一文で
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20110405