ミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の書物の魅力は、めくるめく読書体験をもたらす文章の力とともに、その問いの立て方にあるように思う。ある問いについてめぐらされた思考に触れるとき、第一の関門は読み手がそこで提出されている問いにどこまで共感できるかという点にかかっているのではないだろうか。
フーコーが俎上にのせた狂気や監獄や性にかんする制度や権力、あるいはこうした対象を扱うための知や言語のあり方といったテーマ自体もさることながら、彼がこうしたものごとに向かい合うときのものの見方には、門外漢さえも知らず識らずのうちにひきこまずにはおかないなにかがある。
例えばそのことを、フーコーは渡辺守章氏の問いかけ――フーコーの著作のなかに繰り返しあらわれる〈視線〉と〈演劇〉というテーマ系はなにに由来するのか?――に応えて自らこんなふうに語っている。
私の関心を強く惹き、かつ私がしたいと思っている一つのことは次のようなものです。すなわち、西洋世界の人間が、それが真実か否かという問いをついに提出することなく事物を見てきたその仕方を描写し、彼らが、彼ら自身で、己の視線の遊戯=働きによって、世界という
演劇 を上演したその仕方を描写することです。
(『増補新版 哲学の舞台』p.17)
西欧哲学史の文脈で言えばカントが明確にしてみせた批判――経験の条件を意識化し検討にかけること――を遂行することである。それをフーコーは次のようにも言い換えている。
哲学者は、〈見えないもの〉を見えるようにするのではなく、〈見えているもの〉を見えるようにする役割をもっていると思います。つまり、常に人が見ていながらその実態において見えていないもの、あるいは見損なっているものを、ちょっと視点をずらすことによってはっきり見えるようにする作業なのです。哲学とは、このわずかな首のひねり、わずかな視点の移動によって成立している(以下略)。
(同書、p.55)
「わずかな首のひねり」が見慣れた日常の風景を異次元空間にしてしまうことだってある。そしてこれが読者を興奮させる大きな要因なのだと思う。
1978年に朝日出版社のエピステーメー叢書の一冊として刊行された『哲学の舞台』は、いま以上に本も読まずものを知らなかった一学生に、それでもフーコーの著作を読み、その思考の痕跡に触れる醍醐味を存分に教えてくれる書物だった。
同書には、フランス文学者であり演劇の演出家でもある渡辺守章氏との対談「哲学の舞台」が巻頭に置かれ、フーコーが来日時に行った講演の記録「狂気と社会」「〈性〉と権力」「政治の分析哲学——西洋世界における哲学者と権力」と、『性の歴史I——知への意志』の訳者・渡辺氏による解説的読解「性的なるものをめぐって——『知への意志』を読む」が併録されていた。
それから四半世紀以上を経て、このつど『増補改訂版 哲学の舞台』が刊行された。これは上記の書物に大幅な増補を加えたもので、フーコー存命中に刊行された上記の旧版を第一部とし、1984のフーコー逝去時に書かれた渡辺氏による追悼文「快活な知」、その後発表された論考「襞にそって襞を——フーコーの肖像のために」「見ること、身体——フーコーの『マネ論』をめぐって」、そして本書のために行われた渡辺氏と石田英敬氏との対談「今、フーコーを読むとは——解題に代えて」といったテクストを第二部として収めている(帯に刷られた推薦文は浅田彰氏による)。
フーコーの没後20年以上が経ち、その仕事については少なからぬ書物が書かれてきたが、とりわけこれからフーコーに触れてみたいと思っている読者に本書を薦めたいと思う。フーコー自身の言葉(翻訳とはいえ)に触れることから対象に接近することはなによりだし、フーコーの仕事そのものに対してどのように「わずかな首のひねり」をしてみせるかというお手本のような議論にも同時に触れることができるからである。
なお、本書の旧版を手がけたのは今年の1月に亡くなった中野幹隆氏だった。目下ジュンク堂新宿店では、彼がかかわった雑誌や書籍を集めた追悼ブックフェア「中野幹隆という未来」が開催されている。また、紀伊国屋書店新宿本店5階では、朝日出版社の在庫僅少本フェアが始まっている。いずれも日ごろ書店店頭で見かけない書目がずらりと並ぶ貴重な機会。*1
このブックフェアについては、月曜社のウラゲツ☆ブログにて写真つきで詳しく紹介されているので、そちらを参照されたい。
⇒ウラゲツ☆ブログ > 追悼ブックフェア「中野幹隆という未来」@ジュンク堂新宿店
http://urag.exblog.jp/tb/5812009
⇒朝日出版社 > 『増補新版 哲学の舞台』
http://www.asahipress.com/2007/tetsugaku.html
*1:とお知らせしておいて恐縮ですが、すでに先日、残り1冊の書目を数冊入手してしまいました。