一度くらいは死んで生き返るんだ



ひょっとしたらこれから読もうとしている書物が、これまでにも何度か遭遇した、辛い記憶を自己憐憫で染め上げた〈セカイの中心で怨を叫ぶ〉文章であったらどうしよう、そんな不幸や絶望をきもちよく語る書物であったらどうしよう——長い遺書のようなこの書物の最初の数ページを繰りながら、不意にそんな思いが脳裏をよぎった。なにしろ、自殺を決意した「アタシ」が、死のうとするそのときに、その決意と実行にいたるまでの記憶をたどりなおすその過程が語り出される、という始まり方をするのだから。


だが、野暮な読者の杞憂など置き去りにして、「アタシ」の記憶が静かに淡々と生成されてゆく。

4月。アタシは中学校に入学した。
西暦なら1976年、元号なら昭和51年から52年生、辰年か巳年の同級生は、昭和最後の小学生、平成初の中学生という言葉を手向けられて、地元の公立中学校へ当たり前のように入学する。
選択肢なんかない。自動的にベルトコンベアーに乗せられた「食肉加工品」ミンチみたいな顔して、正門をくぐり抜ける。アタシもそうだ。
昭和天皇崩御。昭和は終わった。
平成元年。この間の抜けた元号は未だ定着していない。


同級生とも上級生とも教師ともなじむことのない中学校生活。父親が出ていった家庭には正気と狂気のあいだを往復するソボとハハがいる。そんな家にやってくるのは借金取り、見知らぬ男、福祉課の職員たち。学校と家庭の外には、病院とラブホテルと喫茶店。中国では天安門事件。連続幼女誘拐殺人事件で宮﨑勤逮捕。そもそも他人となにかを理解しあえるという幻想を抱く暇もないような、出口なしの日常を生きる異星人のようなアタシ。


気がつけば200ページを読み終えている。もっとウェットに暗く絶望もできるはずの状況が、むしろ明るくさえ感じられる。これを読むあいだ、わたしの脳裏ではどの場面にもからりと晴れわたった五月の陽光が射していた。猜疑や絶望におあつらえむきの夜の闇ではなくて出来事を隅々まで見えるようにさせる光が満ちていた。


なけなしの知恵で推論をすれば、これはきっと書き手が対象とのあいだに置いた時間と距離に関係している。ときに感情に揺られながらも、アタシは周囲の他人をとてもよく見ている。ナルシシズムの横溢に陥ってもおかしくないこのような状況にもかかわらず、ここにはよく書かれたハードボイルド小説にも似た乾いた空気が流れている。アタシと世界とのあいだに起こる出来事を、どこか突き放した目で、彼女が見ているからだろう。そんな彼女は、自分の置かれた苦境を脱したいと神仏に願いをかけてみながらも、最後には「畜生、神様なんていやしない」と吐きすてもする。


記憶をたどり終えて、これから死のうとする冒頭の場面に戻りつく。いまやこの記憶の煉獄めぐりが、彼女の精神に小さな差異をもたらしている。しかしその精神のうえでのかすかなちがいこそがいつだって、ひとに行動の上での大きなちがいをもたらすのではなかったか。アタシは、死ぬことを決意した自分を突き放す。しかしどちらへ?



それまでずっと本書を読むあいだ、耳元ではキャロル・キングTapestryが繰り返し聴こえていたのだったが(書物を読むとき、記憶のなかで勝手に或る音楽が再生されるということがないだろうか)、最後まで読み終えたところで山本正之の歌声が鳴り響いた。

一度くらいは、死んで生き返るんだ


なお、本書は太田出版社から刊行の「文化系女子叢書」の第1巻目である旨が謳われている。


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太田出版 > 吉田アミ『サマースプリング』
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