いとも賢いアンマイオスよ、われわれは今のこの時代におおいに感謝せねばなりません。というのも、他のさまざまな研究分野が以前よりも改善されたうえに、とくに市民弁論への関心がおおいに高まったのですから。じっさいわれわれに先立つ時代には、古くからの哲学的弁論術は踏みつけにされ、不当な扱いを受けて衰退していました。マケドニアのアレクサンドロス大王の死以来、この弁論術は徐々に生気を失いしぼんでいって、われわれの時代には、ほとんど消滅してしまわんばかりでした。そして別の弁論術がその地位に取って代わったのですが、この弁論術というのがたえがたいほどに厚顔無恥で下品なしろものであり、哲学ともその他の一般教養とも無縁なものだったのです。この弁論術はひそかに無知な民衆を欺いて、富と贅沢と華やかさとを先の弁論術以上に享受したばかりでなく、哲学的弁論術こそが手に入れるべき、国家における名声と地位までもみずからのものにしてしまいました。まことに卑俗で不快なこの弁論術のせいで、とうとうギリシアはだらしない道楽者の家みたいになったのです。
(「第一章 弁論術の衰退」、木曽明子+戸高和弘訳、西洋古典叢書G039、京都大学学術出版会、2004/08、4ページ)
これは、ディオニュシオスの「古代弁論家――序」の冒頭部分です。
この書物は、言葉の編み物である弁論をどのように学ぶべきか、その手本として誰の弁論を参考にするとよいか、それはいかなる特徴を備えた弁論であるかを論じたもの。
外から見る限り、政治の世界にも法廷の世界にも、そもそも弁論術らしきものが見あたらない日本では、いまひとつピンと来づらいかもしれません。しかし、日常生活から各種の議論まで、ほとんどのことを言論でまかなっていることを思えば、言葉をどのように選び、配置し、述べるかということの重要性は誰もが感得するところだと思います。
上に引用した部分で興味深いのは、弁論がいくつかに分類されていることです。これはアリストテレスの『弁論術』でもなされていたことですが、「同じ」言語が、目的や使われ方に応じて区別されているわけです。
といっても、私たち自身、さまざまな場面で言葉を使い分けているわけだから、別段いまさら驚くようなことではないかもしれません。さりながら、昨今のようにネットをはじめとするさまざまなチャネルから多様な言葉がごちゃごちゃに流れてくる状況になると、改めてきちんとそうした分類や用途の異同を確認してみたくなります。
古代ギリシアやローマに書かれた各種の弁論術書や弁論は、そうしたことを考えるうえで得難いヒントを与えてくれます。同時に、それでは翻って中国や日本ではどのような弁論術や修辞学があったか、そんなことも含めて集め読みながら、ときどきご紹介してみたいと思います。
⇒京都大学学術出版会 > 西洋古典叢書
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/seiyokoten1.html
⇒Wikipedia > Dionysius
http://en.wikipedia.org/wiki/Dionysius_of_Halicarnassus
http://fr.wikipedia.org/wiki/Denys_d%27Halicarnasse
http://de.wikipedia.org/wiki/Dionysios_von_Halikarnassos
上記は英仏独の各ページへのリンクです。