ディオニュシオスの弁論術2



承前)ディオニュシオスが古代弁論家として最初に取り上げるのは、リュシアス(紀元前5世紀から4世紀に活動)です。


ディオニュシオスは、リュシアスが書き残した弁論の文体について、次のような美点を数え上げています。

・純正なギリシア語
・標準的で一般的な用語法
・明晰さ
・簡潔さ
・端的な言葉づかい
・生き生きとした描写
・人物設定
・適切さ
・優美さ


筆頭に述べられている「純正なギリシア語」という観点に、興味を惹かれます。「純正」とは、そうではないギリシア語があってこそ意味を持つ言い方。ディオニュシオスが、ローマでギリシア語弁論の先生をしていたらしいことも関係していそうです。


このことで連想することがあります。専門学校や大学で留学生と接しているときに、「この言い方は日本語として正しいですか?」と問われたり、説明することがしばしばあります。そうした機会に、一応日本語としてはこういう言い方をする場合が多いと説明しながら、しかしなぜそうなのか、と考えさせられるのです。


それを「純正」と言うか別の表現を選ぶかは別として、或る言語が異文化に接してゆくとき、その境界で言語の「正しさ」が問題となるのではないかと思います。逆の立場で考えてみても、異語を学ぶ際、「この言い方で正しいか?」ということが絶えず気になったりします。


すでにいろいろな形で論究されていると思いますが、言語の文法や語彙の分析・整備の進展と異文化の交流の関係について、どんな研究がなされているのか追いかけてみたいと思います。文法史と世界史地図を並べてみると、なにか見えてくるかもしれません。


二つめに挙げられている「標準的で一般的な用語法」というのは、詩的に凝った表現や稀にしか使われないような語彙をひねり回さず、ありふれた日常的な語彙で考えを述べる、という意味です。


これも、なにをもってありふれた日常的語彙とみなすかは、いろいろ考える余地があるところです。しかし例えば、廣松渉の文体や一部のライトノベルスなどで使われる大仰な形容、あるいはしばらく前に盛んに書かれた現代思想の翻訳文体などを並べてみると、実感が湧いてくるやもしれません。


私自身は、自分が書いた文章を、声に出して読んでも自分として恥ずかしくならないかどうかを、一つの基準にしています(そのため、内容を問わず、ゲラの段階で必ず何度か自分の言葉を音読してみています)。また、脳裏に各方面から集めた何人かの読者代表の委員会がおり、この人たちに向けて朗読しても大丈夫かという観点から確認したりもします。


と、ディオニュシオスがリュシアスを褒め讃えるポイントから連想することをいくつか述べてみました。もう一つ「優美さ」が大いに気になるところですが、これはもう少し具体的にディオニュシオスの議論を見ながら述べてみたいと思います。