クインティリアヌス『弁論家の教育1』(森谷宇一+戸高和弘+渡辺浩司+伊達立晶訳、西洋古典叢書L014、京都大学学術出版、2005/05、amazon.co.jp)#0420
 Marcus Fabius Quintilianus, Institutio Oratoria


ローマの弁論家マルクスファビウスクインティリアヌス(Marcus Fabius Quintilianus, 0035c-0100c)の唯一伝存する作品『弁論家の教育』(全12巻)の邦訳書(全5分冊)。


本書は、弁論術の教師として活動したクインティリアヌスが引退後に書いた作品とみられているもので、「弁論家の教育に役立つと思うものすべてをこの十二巻の本に集め、そのすべてを簡潔に述べるつもりです」(12ページ)という内容の書物。


この第1分冊には、原典の第1巻と第2巻が収録されている。第1巻では、弁論術を教育する意味から説き起こし、文法(ギリシア語・ラテン語)についての概説、文法教師のもとでの学び方、文法以外の学について。第2巻では、子供をいつ弁論家にゆだねるかという時期の解説からはじまり、子供の素質にあわせてどのような教育を施すべきであるか、弁論術の定義などが論じられる。


ものの本によると、クインティリアヌスの本書は、中世からルネッサンス期をつうじて、著作家たちに修辞学の古典的教科書として読まれていたようだ。ルネサンス期最大の人文主義者とも目されるあのエラスムス(Desiderius Erasmus, 1469c-1536)も本書の影響を受けているとの由。


思えば、いかに言葉を駆使するかという語り方を術として教えてもらう、という発想自体をもったこともなければ、学校にそのような授業がないことを疑問に思ったこともなかったことは、いまにしてみれば不思議なことだ*1。それでいながら、自分はいっぱしに言葉を繰っていると思っているのだから私もおめでたい。本書第1分冊を皮切りに、全5分冊が予定されているというこの教科書でひとつ弁論術のなんたるかを学んでみようと思う。


というので読んでいると、なかに「教養のない語り手のほうが雄弁だとみなされる理由、およびそれへの反論」だなンて章もあってこんなことが論じられている。

教養のない語り手のほうが、より豊富な語彙をもっているように見えるのは、彼らが何でも語るのに対して、教養ある語り手は、選択したうえで控えめに語るからです。なおも加えれば、教養のない語り手は、自分が主張していることを説明しようと腐心したりはしません。

(同書、181ページ)


なかには教養もあり雄弁という人もあるから油断ならない(無教養で弁も立たない人もあるわけだが)。


なお、この作品には本邦訳書に先立って


クインティリアーヌス『弁論家の教育』(小林博英訳、全2巻、世界教育学選集、明治図書、1981)


という抄訳が存在するらしい。


京都大学学術出版会
 http://www.kyoto-up.gr.jp/

*1:はじめてそのことを意識したのは、「モンティ・パイソン」に出てくるさまざまな喋り方教室(罵詈雑言法とか)のコントに出会ったときかもしれない。