志良堂正史さんたちが開発したゲーム『シルアードクエスト』を、(ようやく)プレイし始めました。
『シルアードクエスト』は、ファミリーコンピュータ(1983年発売で今年30周年!)時代の『ドラゴンクエスト』(エニックス、1986)を彷彿とさせるロール・プレイング・ゲーム(RPG)です(下記URLからダウンロードできます)。
まだ、この世界を探索し始めたところで、右も左も分かりませんが、勇者となって世界を危機から救い出すというストーリーといい、仮名だけで構成されたテキストといい、敢えてドットが判別できるように描かれたグラフィックといい、音数を制限して作られた楽曲といい、まさに「クラシカルなRPG」です。
この頃、専門学校や大学でゲームデザインについて教える機会が増えて、しばしば思うことがあります。自分が初めてRPGに遭遇して遊んだ頃、どうしてあんなにも強いときめきを覚えたのだろうかと。
思い返すと、初めてRPGという遊びに触れたのは1980年代、中高生の時分でした。『Wizardry』『Ultima』といった海外RPGや、『ハイドライド』『リザード』などの和製RPG、はたまた『Dungeons & Dragons(D&D)』や『Advanced Dungeons & Dragons(AD&D)』を初めとするテーブルトークRPGで遊ぶつど、小説や映画、あるいは他のゲームとは次元の違う楽しさを感じていたと思います。
別段、過去の楽しさを懐かしむというわけでもなくて、ゲームの世界にどっぷりとつかっていたあの頃に感じていた愉悦の正体はなんなのだろうということを考えます。いま、学校でゲームのつくり方を教えている学生たちは、ゲームで遊ぶ際にどんな楽しさを味わっているのだろう。一概には比較のしようもないことながら、そのことをどうしたらお互いに表現して伝えられるだろうか、といったことが気になっています。
一方では時代がくだるとともに、ゲームも多様になり、ハードの進展とともに表現も細かくなってきました。でも、私自身、その後、上記したゲームに感じたような強い楽しさを感じたことはあまりありません(できれば味わいたいのですが)。「そら、ゲームの経験を積みすぎて、なにを見てもなにかを思い出すようになったのだろう」とか「お前さんの感性が鈍ったのだろう」というご指摘は甘んじて受けたいと思います。でも、そう言ってみるだけでは足りないなにかがあるようにも感じています。
そこにはゲームにおける表現の密度(情報量)と、それとやりとりする人間の認知能力の関係のような、もそっと物質的・身体的な次元のことが関わっているような気もしているのです。もう少し別の言い方をすると、潜在するものと顕在するものの関係の味わいとなるのですが、これについては別途述べてみたいと念じております。
『シルアードクエスト』をゆるゆると進めながら、そんなことについても考えてみたいと思うのでありました。ゲームが進んだら、また報告します。
⇒『シルアードクエスト』
http://lovalotta.pya.jp/SQ/