私のゲーム観

仕事のあいまに(誰に向けてのアピールか)twitterを眺めていたら、さとうさん(twitter id: RSatow)からこんなご要望を頂戴しておりました。

なんだろうと思って、見てみると沖田瑞穂さん(twitter ID: amrtamanthana)という神話学の研究者の方が、次のようにツイートしておいででした。

 沖田さんのTLを遡って読んでみると、こんな具合にも書かれています。

 ゲームで人生が変わったというよりも、ゲームによって人生をつくられてきた小生としては、なにか言えることがあるかもしれないと思い筆をとってみた次第です。twitterでつぶやこうかと思ったのですが、連想を書いていたら長くなってしまったので、ここに記します。さとうさん、きっかけをつくってくださりありがとう :-)

最初にお断りすると、思い浮かべたことをそのまま書いております。事実の確認などをしておりませんので、山本の記憶違いも含まれている可能性がありますこと、お含みおきください。要するに、わたしの記憶内のお話でございます。

 

1.この一手、永劫回帰してもよいと思えるか?

ゲームを始めると、ある決められた初期状態から出発して、ルールで定められた終了条件が満たされるまで、試行錯誤を繰り返す。終わりを迎えると、それまでどれだけたくさんのことが生じたとしても、何事もなかったかのように元に戻る。

というのは、例えば『将棋』や『チェス』を思い浮かべてのこと。決まった配置から始めて、二人のプレイヤーが交互にコマを動かすたび、盤上は変化しつづける。でも一旦勝負がついてしまうと、コマは配置を解かれて、また次のプレイが始まるときには初期状態に戻される。

私は、ゲームについて考えるとき、いま述べたような印象を頭の片隅で持っているように感じている。永劫回帰というか、無限ループというか、ゼロに戻ってそのつど世界の創造が始まり、終わりを迎えるというか。

そのつどのゲームプレイは、それこそ始原から終末に向けて時間が直線状に進んでゆく世界のよう。けれども、終末の後でまた始原に戻るのは、時間が円環をなす世界のようでもある。

先ほど永劫回帰という言葉を使ったけれど、ニーチェの発想をもじって言えば、ゲームによい状態で臨もうとするプレイヤーは、「君は次のプレイで、いまと同じ状況に置かれるとしても、また同じ手を選ぶか?」と考えるからでもあります。

ゲームのなかで自分のミスが明らかになるたび、「いや、それは駄目だった。下策であった」と反省し、次の人生(ゲームプレイ)では、同じ過ちを犯さぬように気をつけようと記憶に刻みます。ゲームにおける輪廻転生では、どうやら記憶が持ち越されるようなのです。

 

2.異世界に転生だ!

また、プレイヤーはマイクル・ムアコックの小説シリーズ「エターナル・チャンピオン」シリーズのヒーローたちのように、一人の人間でありながら、異なる世界ごとに異なるキャラクターとして転生する。

などといえば恰好をつけすぎかもしれないけれど、要するに複数のゲームをとっかえひっかえ遊ぶということは、立場をひょいひょい入れ替えて、それぞれの世界に転生しているようなもの、とも感じます。

あるときは不動産転がしであくどく資本を増やす銀行家、またあるときはロンドンを逃げ回る犯人を追うスコットランドヤードの警部、あるいは異世界で世界を滅亡から救うために戦ったり、市長となって都市を発展させたり、市長となって街のごろつきどもをなぎ倒したり……などなど。

新たにゲームを始めるたび、人は新しい世界の住人として、その異世界に転生すると喩えてみたくなります。

 

3.Dungeons & Dragonsと神話

ゲームと神話といえば連想するのは、『Dungeons & Dragons』です。人間同士で遊ぶロールプレイングゲームの最初期の作品で、トールキンの『指輪物語』のような(というか下敷きの一つといってよいでしょう)ファンタジー世界を舞台に遊びます。

そのルールブックや登場するモンスターたちを見てゆくと、そこにはさまざまな神話の記憶が活用されているのが分かります。例えば、ケルベロス、サイクロプス、メデューサ、ハーピー、グリフォンなど、ホメロスの『オデュッセイア』ほか、ギリシア神話でお目にかかる生きものたちが登場します。空を飛べるブーツに姿の消えるリングといった魔法のアイテムも同様です。

設定にもよりますが、多神教の世界に多様な種族がおり、多くのキャラクターがなんらかの神のご加護を得ているという点でも、神話の世界とのつながりが感じられます。

この『D&D』を一人でも遊びたいと思った人たちが、コンピュータでRPGをつくり、『Wizardry』や『Ultima』といった初期の傑作コンピュータRPGは、『D&D』を受け継ぐ形で神話的要素が流れ込みます。

現在、日本のソーシャルゲームでは、八百万の神々と言いたくなるような状況が生じています。ギリシア神話にとどまらず、日本の神話、古代メソポタミア、北欧、南米、中国その他、世界中の神話を材料として、多くのゲームではそれらの神々が同じ世界にごちゃまぜに登場したりもします。これもまた、上記の『D&D』から流れ出したゲーム設定の遠い残響であると言ってよいでしょう(作者たちが意識しているかどうかは別として)。

 

4.ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう

また、ゲームと神話といえば思い出さずにいられないのは、H. P. ラヴクラフトによる暗黒神話大系の影響です。もとは小説として書かれた、いわゆる「クトゥルフ神話」は、後に『D&D』と同様の人間同士で遊ぶRPGとなり、これはいまもなお楽しまれています。

詳しくは調べ物をしないと正確なことを言えませんが、コンピュータゲームの初期の段階から、クトゥルフ神話をモチーフにした(下敷きにした)ゲームもつくられてきました。

 

5.あんだって? あたしゃ神様だよ

『ポピュラス』『ブラック&ホワイト』のように、プレイヤーが神様になっちゃうゲームもありますね。志村けんでなくても「あんだって? あたしゃ神様だよ」と言えるゲームです。

 

6.天使と悪魔

その他大きなトピックとしては、天使と悪魔の扱いもゲームでは欠かせない要素かもしれません。『女神転生』『Devil May Cry』のように悪魔を大きくとりあげたゲームだけでなく、「ビックリマン」じゃないけれど、本当にいろいろな場所に天使と悪魔は登場しているはず。あと、ときどき神様とも戦っちゃったりしますね。と書いていたら、『ゴッド・オブ・ウォー』や『ゴッド・イーター』を思い出しました。

もうみんな忘れてしまったかもしれないけれど、『エルシャダイ』のことも時々思い出してあげてほしいのよ(私もいま思い出したんだけど)。

 

7.ゲームクリエイターは神か悪魔か?

最後はちょっと傲慢に聞こえるかもしれないけれど、ゲームクリエイターは、そのつど新たな神話を創造しているその世界にとっての神様とも言えそうです。

ゲーム中のプレイヤーの視点のひとつに「神の視点」と呼ばれたりもする、全体を見渡せる立場というのがあったりもします。ゲームクリエイターは、ゲームを成立させるその世界の条理も含めて、すべてを創造する立場。

ほら、プレイ中のゲームで、とっても強いカードやアイテムを持っていたのに、作者がバランス調整で弱くしたために、一夜明けたら使えないカードになっていた、なんて経験はありませんか。神様も間違いに気づくとちょいちょい世界に手を入れるわけですね。

ただし、神様のような立場でありながら、所詮は人間なので、自分がつくったゲームの世界といえども、実際何が起きるかは、やってみないと分からない部分もたくさんあったりします。人間だもの。

 

以上、思いつくまま、書いてみました。

じゃあ、私は『FGO』に戻りますね。ご機嫌よう。