さて、どんな文章を書こうかな。
そんなときは歩くに限る。
鞄にノートとペンと本を入れて家を出る。行き先は決まってない。ともかく歩き出すのが肝心だから。
机に向かってじっとしていたせいか、歩き始めは少し変な感じがする。手足を交互に前へ。足が地面を踏むたび、視野もちょっとがたっとする。歩くってこんなのだったかな。
光が動き、風が起こる。遠くでカラスが鳴いている。
やがて体が歩くことに馴染んできて、あれこれ考えずとも半ば自動運転のように動く。
タッタッ、タッタッ、タッタッ、タッタッ……
一歩一歩が重なると、リズムが生まれる。
リズムが生まれると歌が思い出される。
Joan was quizzical, studied pataphysical science in the home
Late nights all alone with a test-tube ohh oh oh oh
Maxwell Edison majoring in medicine calls her on the phone
Can I take you out to the pictures, Joan?
But as she’s getting ready to go a knock comes on the doorBang, bang, Maxwell’s silver hammer came down upon her head
Bang, bang, Maxwell’s silver hammer made sure that she was dead.
パタフィジクといえば、Pataphysics: A Useless Guide (MIT Press)という面白い本があったな……アルフレッド・ジャリ……『フォーストロール博士言行録』……レーモン・クノー……あ、ローバーミニ!……Bang, bang, Maxwell’s silver hammer……トゥルットゥルートゥ……
歩いていると、放っておいても(といっても歩いているのだけれども)周囲が変化して、視覚、聴覚、嗅覚、触覚(主に足の裏)からいろいろなものが入りこんでくる。
入ってきたものから記憶が想起され、疑問が生じ、ぱっと言葉が浮かぶ。立ち止まってノートを取り出し、メモをとる。ノートをしまってまた歩き出す。
『草枕』の冒頭も歩く話だった。
「山路を登りながら、こう考えた」んだった。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。
……とひとくさりあれこれ考えが進んでいって、そうそう、この語り手は地形に足をとられてバランスを崩す、という描写が入って、読者ははじめてこれは語り手が歩きながら考えていることだったと分かるしかけだった。
歩きながら考える。歩くと考えられることがある。
レベッカ・ソルニット『ウォークス――歩くことの精神史』(東辻賢治郎訳、左右社、2017)も、そんなふうに始まる。
ソルニットが本の構想をまとめようとして散歩に出る。目に入るものからあれこれ想起する。歩く。考える。歩く。
昔、『考える人』(新潮社)という雑誌で、歩くことを特集した時、ブックガイドを書いた。この際と思って、だいぶ探してみたけれど、歩行を主題とする文化誌はあまり多くなくて、そんななかでもソルニットのWanderlust: A History of Walkingは、たいそう面白かったのを覚えている。
それ以後、なんだろうこの書き手はと気になって、彼女が書く本をともかく読むようになった。誰とも似ていない着眼、文献の博捜と身の丈大の地に足のついた思考と実践がほどよく混ざりあった文章は、なんというか、信用できる。
facebookにソルニットさんの本の映った写真をアップロードしたら、スコット・ジョセフさんが、”Solnit is BAE (before anyone else)”とコメントをしてくれた。ああ、ほんとそうだよな。『IDEA』誌でジョセフさんの写真つきエッセイ”Language without Place”の翻訳を担当しているけれど、ジョセフさんの文章もBAEだ(次号に最終回が掲載される予定)。
このたびご縁があって、ソルニットさんの『ウォークス』の書評を「週刊読書人」(2017年8月25日号)に寄稿したので、それをご紹介しようと思ったのだった。
⇒左右社 > レベッカ・ソルニット『ウォークス』紹介ページ
http://sayusha.com/catalog/books/nonfiction/p9784865281385