ストア派への道

いわゆる哲学の本を読むようになったのは、いつだっただろう。

自覚的に読むようになったのは、たぶん高校生の頃のこと。

世界史の先生が、夏休みの読書案内というのでつくってくれたブックリストを頼りに、ヘロドトスの『歴史』(松平千秋訳、全3冊、岩波文庫)を書店で手に入れて読んだ。

(これについては『文學界』2016年8月号に「歴史はこんなふうに」というエッセイを書いたことがある)

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(高校生の時分に買った岩波文庫。1987年の第19刷。パラフィン紙は酸化して、触るたび崩れる)

 

そこから岩波文庫を知って、目録に載る西洋哲学の登場人物や著作に興味をもったのだろうと思う。本や映画のリストをつくったり見たりするのが好きだったこともあり、巻末の既刊書目リストを熟読したのを覚えている。

 

 

田舎町の小さな書店には、いまにして思えば売れずに残り続けていたのかもしれない岩波文庫が一棚分あった。まだいまのようなカヴァーがつく前で、パラフィン紙で包まれていた。

なにかについて、歴史を順に辿ったり、これ以上遡れない(伝存する限りでの)起源を知るのを好む私は、学校帰りなどに自転車でその書店に行き、岩波文庫のプラトンやアリストテレスから順に読んでいった。とうてい理解して読んだとは思えないけれど、とにかく気になって。

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(それ以来、気づけば岩波文庫を全て集め読むプロジェクトを勝手に発足して継続中。写真は青帯の棚。手前と奥に二重に収納している)

 

そんなことを続けるうちに目に入ったのがストア派だった。はじめはマルクス・アウレリウスの『自省録』。つぎにエピクテトスの『人生談義』。そこでは、哲学といわれて連想するような世界の成り立ちや言語の考察などではなく、書名のとおり、自省や人生にかんする話が切れ切れの断章を連ねたような形で載っている。

そこに描かれるものの考え方に魅力を感じた。一方は皇帝で、他方は奴隷出身という身分の大きな違いとは別に、なにか共通する世界との接し方が説かれていた。

以来、ストア派、とりわけエピクテトスのことが気になっている。

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というので、私と同じくストア派がずっと気になってきた吉川浩満くん(id:clnmn)と「webちくま」で連載をすることになったのが、「人生がときめく知の技法」なのだった。

 

隔週掲載で第14回目となりました。

放っておくと暴走したり、自分を振り回す欲望について、どう向き合ったらよいか。エピクテトス哲学の核心について検討するところ。

お楽しみいただければ幸いです。