イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #01

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー、2016)読書会のための読書メモです。


先日、酒井泰斗さんと高橋未玲さんが主催する同読書会の第1回が開かれました。当日は同書の全体像を描いた第1章を読んで議論検討したところです。

次回第2回は、今井晋さんと私が担当で、第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」を読みます。私が前半で、今井さんが後半です。

松永さんによる訳文は、第1回で酒井さんも評していたように、読みやすく適切であるように私も感じました。ここでは、自分でも原文を読んでみるという趣旨で、松永さんの訳を参考にしながら訳文を提示してみる、ということもしてみます。

というわけで、読書会の準備を兼ねて、第2章の読書メモをここに記してゆこうと思います。今回は章のタイトルについて。

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■メモランダム1.第2章のタイトルについて

第2章は「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」と題されている。原語では"VIDEO GAMES AND THE CLASSIC GAME MODEL"。

ここで言われている「古典的ゲームモデル」について、ユールは第1章で概要を説明していた。次のとおり。

第2章で示される古典的ゲームモデルは、「ゲーム」と呼ばれるものが具体的にどういう仕方で成り立っているのかを切り取ってみたものだ。それは、歴史的に見れば、何千年もまえからあるモデルだ。

 

The classical game model presented in chapter2 is a snapshot of a specific way of creating "games," a model that can be traced historically for thousands of years.

(邦訳15ページ/原書p. 6 ただし、下線は邦訳では傍点、原書では斜体)

ユールの関心は、人びとが「ゲーム」と呼んできたもの、呼んでいるさまざまなものに、なにか類似性があるか否かという点にある。彼はゲームを定義しようとしている。つまり、ゲーム全般に共通する性質を捉えて記述しようとしている。その際、古くからあるゲームのモデルを参考にしようという次第。

邦訳を参考にしつつ、自分でも原文を読んでみると、こんな具合だろうか。

第2章で示される古典的ゲームモデルとは、「ゲームなるもの」に固有の作り方を写し取ったものであり、何千年という歴史を遡れるモデルだ。

(原書p.6の参考訳)

ここで「モデル(model)」とは何か、ということが気になる。あくまで私の場合だけれど、これは分かったようで分からないようなところのある言葉。この文脈では、「模型」「型」ぐらいの意味で捉えればよいように感じる。つまり、古来ゲームと呼ばれてきたものに共通する祖型、構造(要素の組み合わせ方)を「モデル」と考えるわけである。「ゲームの原型」と言ってもよいかもしれない。

近頃翻訳が出たマイケル・ワイスバーグ『科学とモデル――シミュレーションの哲学入門』(松王政浩訳、名古屋大学出版会、2017)〔Michael Weisberg, Simulation and Similarity: Using Models to Understand the World, Oxford University Press, 2013〕は、科学の分野で用いられるモデルやモデリングという概念について、その性質や問題点を検討したたいへん面白い本だ。

そこでワイスバーグは、科学で使われるモデルを「具象モデル」、「数理モデル」、「数値計算モデル」という三つに分類した上で、これらに共通する特徴をこう述べている。

核心的なことは、三つのモデルのいずれも、現実を、または想像された現象を表すための、ある解釈された構造によって成り立っているということだ。

 

At their core, all three models consist of an interpreted structure that can be used to represent a real or imagined phenomenon.

(邦訳20ページ/原書p.15)

これを手がかりとして自分なりに敷衍してみる。

モデルとは、なんらかの対象・現象を、抽象的に表現したもので、そこにはモデルの作成者が対象をどのように解釈したかということを反映した構造がある。

もっとも、ワイズバーグの文章は、モデルを定義したものではなく、彼が取り上げている科学のモデルには共通の特徴があるよね、という話なので、これでモデルなるものを尽くせるわけではないかもしれない。という留保はつくけれど、いったんそんなふうに理解しておこう。

まとめなおせば、モデルとは、ある対象を抽象的に表現した構造物とでもなろうか。ユールの話に戻れば、いろいろな種類のゲームがあるけれど、それらのゲームをまとめて表現するような抽象的構造物をモデルと呼んでいる、と理解してみることができる。

 

また、こんな折りによくやることだけれど、英語のmodelがどこから来たかという由来を見てみると、言葉の意味をイメージしやすくなることがある。

というので、間は端折っていえば、これは例によってラテン語のmodusあたりに由来するようだ。

modusは、

1. 量、数、大きさ
2. 測定単位、尺度
3. 適量、適度;限度、限界
4. 抑制
5. 拍子、リズム、音律
6. 調べ、旋律
7. やり方、方法;型、種類
8. 【文法】(動詞の)態、相

という意味がある。以上は『羅和辞典』(研究社、JapanKnowledge版)のmodusの語釈から。

ここで考えている「モデル」は、さしあたって7の「やり方、方法;型、種類」に該当するのだろう。

 

さらに話を戻すと、ユールは第1章の「ゲームとは何か」と題した節で、上で引用した古典的ゲームモデルとは何かを説明した上で、次のようにそのモデルの6つの特徴を挙げている。この第2章を読む人は、すでにこの6つの特徴を一度目にしているわけなので、ここでも改めて見ておこう。こんな具合。

1. ルールにもとづく形式的なシステムであり、

2. そのシステムは可変かつ数量化可能な結果を持ち、

3. そうした異なる結果に異なる価値が割り当てられており、

4. そのうちの特定の結果をもたらすべくプレイヤーが努力し、

5. プレイヤーは結果に対して感情的なこだわりを感じており、

6. そして、その活動の帰結が任意に取り決め可能なものだ。

 (邦訳15ページ/原書pp.6-7)

ユールは、この6条件が、なにかがゲームであるための必要十分条件だと述べている。

第2章のタイトルに戻れば、「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」というわけで、ヴィデオゲーム以前からあるゲームのモデル(古典的ゲームモデル)とヴィデオゲームとは、どう関係するかという検討がなされるのだろうと考えられる。

実際のところ、何がどのように論じられるのかは、次回読み進めていこう。

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」
 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

 

 

■関連文献

 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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科学とモデル―シミュレーションの哲学 入門―

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書評:ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋)

『週刊現代』7月8日号(講談社)に書評を寄稿しました。

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評したのは、ルトガー・ブレグマン『隷属なき道――AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』(野中香方子訳、文藝春秋)です。

貧困の問題を解決するには、ベーシックインカムと労働時間の短縮と国境の開放が有効だとする政策提案を見ると、反射的に「お気楽なことを言ってからに」と感じる向きもあろうかと思います。

著者が貧困解決のためのもう一つの課題だと指摘しているのは、まさにこのことでした。つまり、そんなふうに人間が抱きがちな固定観念や思い込み、そこから生じる決めつけ、当世風にいえば各種の認知バイアスの存在を踏まえた上で、なおもどう解決に向けて物事を変えてゆけるか、というわけです。

そういう意味では、同書は歴史の検討と人間心理(認知心理学)を踏まえた政治・政策のあり方を模索するための本と位置づけられるでしょう。人間を理性的な存在と仮定するのではなく、その心理に備わっているらしい各種の性質を前提として、経済や政治の政策をくみたてたり実行するにはどうしたらよいか。このところ各領域で見られるようになってきた認知科学・認知心理学の知見を踏まえた学術の試みであります。

 

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隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働

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隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】

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人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)

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啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

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「東京堂書店トークイベント報告」(工作舎)

先日、東京堂書店で行った古賀弘幸さんの新著2冊の刊行記念のトークイヴェントについて、工作舎のウェブサイトにレポートが掲載されました。

 

当日は、古賀さんが用意したたくさんの写真を見ながら、『文字と書の消息』(工作舎)と『書のひみつ』(朝日出版社)の面白さ、見所を案内していただきました。

私が配布した資料「文字の生態学/文字の潜在性」は、古賀さんの驚くほど多様な論点と例示される資料を、さらに楽しむための見方をお示しするものでした。キーワードは「属性」と「動詞」です。

 

twitterでこんなふうにつぶやきました。

 終わったイヴェントについて、やりたかったことを述べても詮無いのですけれど、なにを話し、古賀さんの本とつなげたり、交わらせようと考えていたのかという記録として書いてみました。古賀さんと藤本さんが対談したら、なにかわれわれ常人の目では気づけない文字のひみつを垣間見させてもらえるのではないか、などと空想も膨らみます。

 

古賀さんは、7月8日に紀伊國屋書店アミュプラザおおいた店で「書を学ぶ人のために――書と文字はいろいろな顔を持っている」と題して書家の史穂呼さんと対談をするご予定とのことです。

 

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文字と書の消息 ――落書きから漢字までの文化誌

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書のひみつ

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文体の科学

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「人生がときめく知の技法」第10回

隔週でお送りしている「webちくま」での吉川浩満くん(id:clnmn)との連載「人生がときめく知の技法――賢人エピクテトスに学ぶ人生哲学」第10回が公開されました。

今回は、「「心像の正しい使用」とは?」と題して、エピクテトス哲学の核心に向かって、さらに一歩踏み込んでゆきます。

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写真は、古典ギリシア語を読むときに使っている辞書のひとつです。2400ページを無理矢理束ねた感じで、ご覧のように自立させるには、ちょっとしたコツが必要です。油断していると、すぐにばらりとページが崩れて倒れてしまいます。

語録 要録 (中公クラシックス)

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古賀弘幸×山本貴光「文字百景 世界は文字で満ちている! ――書の「文体」の不思議に遊び、考える夕べ」(東京堂書店)

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古賀弘幸さんの新著『文字と書の消息』(工作舎)、『書のひみつ』 (朝日出版社)の刊行を記念して、トーク&サイン会が開かれます。

僭越ながら読者を代表して古賀さんにお話を伺いたいと思います。

古賀さんの本を読んで、ノートにいろいろ書いているうちに、ちょっと面白いことを思いつきました。うまくいったらアレをアレして、当日アレしたいと思います。

日時:2017年06月21日(水)19時より

場所:東京堂書店(神保町)

詳細と参加のお申し込み方法は、下記リンク先からご覧いただけます。

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⇒東京堂書店 > 同イヴェント告知ページ
 http://www.tokyodo-web.co.jp/blog/?p=14195

 

書評:ジョシュア・ウルフ・シェンク『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』

「日本経済新聞」2017年06月17日(土)版に、ジョシュア・ウルフ・シェンク『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(矢羽野薫訳、英治出版、2017/04)の書評を寄稿しました。

以下余談です。

私は、最初に書いた『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(朝日出版社、2004)以来、しばしば吉川浩満くん(id:clnmn)と一緒に本や原稿を書いています。

最近「ゲンロンβ」や「webちくま」に連載している文章のように、対談の形をしている場合は、「ああ、二人で話しているんだな」と分かりやすいのですが、それ以外の場合、あたかも一人の著者が書いたように見えるので、いったいどうやって二人でこれを書いているのかと、時折お尋ねいただきます。

およそ以下のようなプロセスでやっています。

1) テーマについて話しあう。

2) 全体を適当に分けて、話しあったことに基づいて書く。

3) お互いが書いたものを交換して書き換える。

4) 必要に応じてさらに話し合い、検討する。

5) 完成に至るまで3に戻る。

 という具合です。

要するに、何をどう書くかをはじめに話しあって、出発点では誰かが書く必要があるので分担して書くものの、それを交換して遠慮会釈なく上書きしあうということを繰り返すわけです。これを私たちは「レノン&マッカートニー式」とか「ドゥルーズ&ガタリ式」などと呼んでいます(不遜にも程がありますが!)。

吉川くんとは、1990年代初めに大学で知り合い、いまに至るつきあいです。1997年に「哲学の劇場」というウェブサイトを二人でつくり始めたりもしました。かれこれ二十数年、共同作業を続けている勘定です。

今回、『二人で一人の天才』(原題を直訳すれば『二人の力――創造的ペアによるイノベーションの核心の発見』)を書評するために読みながら、「ああ、そういうことだったのか」と、何度も膝を叩きました。

――ということを、当初、書評にも書こうと考えたのでしたが、限られた紙幅を(読者の大半にとってどうでもよろしい)自分の話に費やすのもなんだね、と思ってご覧のようになりました。

よくもまあ、そんなに調べましたね、という豊富な例を使って、創造的活動におけるペア(二人組)の力を浮き上がらせる類を見ない試みです。

日経新聞書評欄、今回で5度目の登場となりました。

・スティーヴン・ワインバーグ『科学の発見』(文藝春秋)

・ロジャー・クラーク『幽霊とは何か』(国書刊行会)

・エイミー・E・ハーマン『観察力を磨く 名画読解』(早川書房)

・國分功一郎『中動態の世界』(医学書院)

・ジョシュア・ウルフ・シェンク『POWERS OF TWO 二人で一人の天才』(英治出版)

 

ナツクサヤ ツハモノドモガ ユメノアト

このところ、やるべき仕事(To do list)をデジタル環境で管理していたのですが、量と種類が多くなり、どうにも把握できなくなって参りました。

というのは、コンピュータとタスク管理ソフトの組み合わせはたいそう便利な一方で、そうしたデータを確認するには、装置を起動して画面に表示する必要があるわけです。

お前はなにを言ってるんだとお思いかもしれませんが、わたくしのようなズボラな者にとっては、その一手間が厄介です。また、いまひとつ仕事の物量が迫力をもって迫ってきません。

そこで、昔、ゲーム会社でやっていたように、ともかくやるべき仕事をポストイットに書いて壁に貼るという手を使おうと思い立ちました。これなら仕事机に座るたび、残る仕事がイヤでも目に入ります。

それだ! というので文具店で大きめの付箋紙を探しました。

いつも憎からず思っているミドリカンパニーの「MD付せん紙(A7)無罫」(80枚入り)を手に入れて、書くべき本や原稿、翻訳すべき本、つくるべき企画書、対談やインタヴューの準備について、どんどん書き出しました。

ほらみろ、これならどれだけ終わっていない仕事があるのか一目瞭然。いかな怠惰なわたくしといえども、毎日これを目にすれば、否応なくどしどし仕事をせんければなるまいて。われながらいいアイディアじゃ。くほほ。と、町田康の小説風にひとりほくそ笑んでおりました。

ところが。

いざ付箋紙を壁に貼ってみるとどうでしょう。

はじめは40枚ほどの付箋が壁を覆って、なかなかの壮観だったのですが(それでいいのか)、ほどなく1枚、また1枚とはらはら落ちるではありませんか。

「ああ、この最後の1枚が落ちたとき……」と、ついオー・ヘンリーの短篇小説かなにかを思い出すわけですが、なんのことはない。付箋紙のノリと、壁の材質の折り合いが悪いだけのことでした。(そんなの貼る前に分かれよ)

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(だいぶ落ちてしまった後で、まだ残っているツワモノドモ)

 

というわけで、もうちょっと考えなければなりません。

あ、いえ、付箋紙が自然と落ちた仕事はやらないとかそういう意味ではありませんので、ご安心ください。