浮雲(1955, 124min)


焼け野原となった東京にぽつりぽつりと残る家。幸田ゆき子高峰秀子)は、その一軒をたずねる。玄関に出てきた女性に、農林省から富岡に会いにきたと来訪の意図を伝えるゆき子。家の主富岡兼吾森雅之)があらわれ、二人は焼け跡の町をそぞろ歩く。


富岡とゆき子はかつて、任地の仏印(1887-1945年のフランス領インドシナ)ダラットで恋に落ちた。敗戦で引揚げるさい、富岡はゆき子に「妻と離縁して君を待っている」と言い残していたのだった。



東京で再会し、自分にも事情があると煮え切らない富岡に、ダラットの思い出を語るゆき子。彼女にとってのダラットは、富岡と自分のあいだにあり得る最良の関係の記憶であり、富岡にとっては焼け跡の東京での侘しい暮らしの現実をことさらに意識させる終わってしまった過去だった。闇市の立つ街角ではラジオから笠置シヅ子の「東京ブギウギ」(作詞:鈴木勝+作曲・編曲:服部良一)が流れる。


二人はあいまいに関係を再開しつつも、それぞれの日常を生きる。さらに別の女をつくる富岡、生活のために別の男に囲われるゆき子。やがて富岡は、東京を離れて独り屋久島へ渡ろうと心に決める。



二葉亭四迷(ふたばてい・しめい[長谷川辰之助]、1864-1909)の作品と同名の題を冠した林芙美子(はやし・ふみこ[林フミコ]、1903-1951)の代表作浮雲(1950-1951; 新潮文庫、新潮社、1953、amazon.co.jp)は、敗戦後の日本を舞台に、なにもたしかな足がかりがないまま流れてゆく男と女の姿を描いた小説。成瀬巳喜男は、だらしのない富岡と、そんな男に惹かれてしまうゆき子の非対称的な思いとつかずはなれずの関係を、わかりやすい激情や台詞を排しながら淡々と男女の表情や視線をとらえた場面をつみかさねることで浮かび上がらせている。その映像の継起によって浮かび上がる人間と人間の関係のありようをこの場所で述べることはとうていできない相談だが、もしこれからこの作品を観る機会をもつ方は、カメラにおさまって歩く二人の位置どりやみぶりがどれほど雄弁に刻々とかわりゆくそれぞれの気持ちの機微をたくみにあらわしているかということにぜひとも着目されたい、とだけ述べておきたい。


芙美子はこの作品についてこう述べている。

誰の眼にも見逃されている、空間を流れている、人間の運命を書きたかったのだ。筋のない世界、説明の出来ない、小説の外側の世界、誰の影響も受けていない、私の考えた一つのモラル、そうしたものを意図していた。

(『日本文学全集 第41巻』〔筑摩書房、1970〕の解説より引用)


この「一つのモラル」の正体は不明だが、「誰の眼にも見逃されている、空間を流れている、人間の運命」を、成瀬が見事に映画として提示していることはたしかだと思う。


⇒日本映画データベース > 『浮雲
 http://www.jmdb.ne.jp/1955/ce000290.htm