★ヴィルヘルム・フォン・フンボルト『双数について』(村岡晋一訳、新書館、2006/09、ISBN:4403120180)
非母語を学ぶなかで、母語には見受けられない文法要素に出くわすと、奇異な感じを受けるということがしばしばある。
サンスクリット、アラビア語、ギリシア語、ヘブライ語などの言語に触れると、「双数」(両数とも訳される)というものと出会う。
双数とはなにか。英語の名詞には単数形と複数形といった「数」の要素がある。双数とはそうした「数」の一種で、対象がふたつの場合に用いられる形である。
たとえば古典ギリシア語の場合、双数は対になった対象に用いられる。古典ギリシア語のνεανιαςという単語(「若者」という意味の名詞)を例にとってみる。νεανιαςは単数(主格)だが、これが複数(主格)ではνεανιαιとなり、双数(主格・対格)ではνεανιαと形が変わるといった按配である。
なるほど古典ギリシア語の教科書を繙けば、この言語における双数は、双子のように対になったものに用いると書かれている。対になるものに使うという発想はわかる。しかし、対になるものを表現するために、それぞれの名詞、形容詞、動詞にわざわざ双数という形を用意するのは、なんぼなんでも気前がよすぎはしないだろうかなどという疑問がついわいてくる。いやいや、それだけかの文化では対ということを重視したのかもしれない。しかしなぜ……。
このたび邦訳された『双数について』(村岡晋一訳、新書館、2006/09、ISBN:4403120180)には、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt, 1767-1835)による双数に関する考察「双数について(Über den Dualis)」(他二編)が訳出されている。
フンボルトは、フランクフルト大学、ゲッティンゲン大学で法律を学ぶかたわら、ギリシア・ラテンの古典研究に没頭、大学を卒業後は、裁判所、ローマ教皇庁公使、教育長官(ベルリン大学の創設に大きく貢献した)、外交官としてプロイセンの公務に就くあいまに、人間学、古典、歴史、言語の研究を刊行するなど、年譜のうわっつらをなでただけでもその八面六臂ぶりがうかがわれる才人である。
さて、そのフンボルトは、双数についてどのように述べているか。
人間一般の言語はさまざまな民族の特殊な言語のうちにどのようにあらわれるか。この課題を解決するために比較言語研究はさまざまな道を模索しなければならないが、目標にもっとも正確にたどりつく道は、いうまでもなく、言語のある個別的な部分の考察を地球上で知られているすべての言語にわたっておこなうことである。
(同訳書、p.8、強調は引用者による)
この言葉にたがわず、彼はさまざまなリソースを駆使しながら、双数をた「たんに〈二〉という数のかわりに偶然に導入された限定的な複数」とみなす考えを退けて、人間が世界のなかに感知するさまざまな二元性——性別、二組ある器官、昼夜、天地、存在と非存在、命題と反対命題などなど——にその根拠を見出してゆく。
だが、フンボルトの論考を読む愉しみは、諸言語のサンプルを縦横に駆使した詮索と論証にとどまらない。むしろ言語学の門外漢としては、次の言明に見られるように、現実の言語使用の場面に立ち戻ってなされるフンボルトの思考の痕跡に惹かれもする*1。
言語活動の可能性そのものが呼びかけと応答によって条件づけられているのである。思考でさえも、社会的存在への傾向を本質的にともなっており、人間は、すべての身体的・感覚的な関係は別にしても、みずからのたんなる思考のためだけにでも、〈私〉に対する〈君〉を切望する。人間にとって概念は、なんらかの他者の思考力からの反射によってはじめて、その明確さと確実さに到達するらしいのである。
(同訳書、p.31)
私の師はときおり、「あなたの議論を前進させる直接のお役には立てないけれど、あなたの話を聞いて反響板になるくらいのことならできる」と言う。つまり、私なら私という人物が、師を通してそこに投げかけた自分の言葉と向かい合う、そのための反響板にならなれるというのである。なるほど、反響板に言葉を投げ出してみると、途端に己の無知と知の境界がくっきりとして、自分が考えようとしたことの意味がすこしはっきりとしてくる。思えば、反響板はいたるところにある。現にこうして拙い感想を書きつつあるいまも、私は不十分な言葉を書きつけながら、書きつけられることで自分から離れた言葉(すこしばかり過去の自分という他人の思考の痕跡)とふたたび向かい合い、その至らなさに脱力しているところ。
この対話的言語観は、本邦訳書に併載された二つの論文「いくつかの言語における場所の副詞と人称代名詞の類縁性について」(p.46)、「人間の言語構造の相違について」(p.140)においても双数という対象を離れて繰り返されており、フンボルト自身にとっても重要なものであることがうかがわれる。また、この対話の思想が、その後の思想史においてもさまざまに変奏されていることは、訳者・村岡晋一(むらおか・しんいち, 1952- )氏による懇切な解説「あらゆる言語理解は非理解である——フンボルトの対話的言語論」でも論じられているところだ。
さて、フンボルトによる個別具体的な考察についてはぜひ同書にあたって玩味していただきたいのだが、ここではもう一つ、彼の言語観の支柱であると思われる思想に注目しておきたい。それは双数論のなかでこのように論じられている箇所である。
言語はけっしてたんなる意思疎通の手段ではなく、それを語るひとの精神と世界観〔Weltansicht〕の複製である。
(同訳書、p.27)
具体的な文法要素を研究する小さな論考のなかにも、こうした根底的な言語観がひょいと顔を出すところがなんとも面白い。
ここでフンボルトはなにを言おうとしているのか。その含意をもう少し詳しく知るためには、同書に併載された別の論考「人間の言語構造の相違について(Über die Vershiedenheiten des menschlichen Sprachbaues)」(全3章のうち最初の2章が訳出されている)にあらわれる次のようなくだりもあわせて見ておきたい。
しかし、言語が世界観であるのは、いずれの概念も言語によってのみ理解されうるとされる以上、言語〔のおよぶ範囲〕が世界の範囲と同じにならざるをえないからだけではない。言語が対象にかんして企てる変化こそがはじめて、〔みずからと〕世界の概念との不可分な連関の洞察を精神に可能にするからでもある。(中略)人間は、言語をおのれから紡ぎだす同じ行為によって言語のうちに紡ぎこまれもする。
(同訳書、p.164)
言えば当然のことながら、言語は対象をそのままのかたちで言語にとりいれるわけではない。人が或る対象を言語であらわすとき何が生じているのか。人は知覚する対象を、その人が見知っている言語の流儀に則っりながらすくいとるだろう。このとき面白いのは、フンボルトが指摘しているように、人が言語を紡ぎだすばかりではなく、自らその言語(多くの場合、母語)に紡ぎこまれもするということだ。ドゥルーズとガタリがどこかで、母語の中で滑らかに言葉を用いるのではなく、むしろどもることを推奨していたのも、要するにこうした言語と自分の関係を自覚しなおすことから生まれるはずの創造へと人を誘うためであった。
フンボルトの仕事を踏査してみたわけでもないのだから、これは単なる思いなしにすぎないのだが、彼は言語と人間のあわいに生じる出来事の機微に迫りたいという思いに駆られていたように思う。
書き残したものの総体からすれば、フンボルトはけっして翻訳に恵まれているとはいえない作家だ。とはいえ、言語学/言語哲学の書物については無理からぬ面もある。なにしろこのたびの訳書を見てもわかるように、多数の言語を軽々と横断する専門的な研究を正確に訳出するためには、俎上に載せられる言語や文法について、それなりの知識と理解が必要であるにちがいない。本訳書の刊行を契機にさらなる邦訳が……ということは期待できそうもないけれど、言語の分野を問わず、フンボルトの著作が日本語で読めるようにならないだろうかと淡い期待を捨てずにいたい。
なお、ユルゲン・トラバント(Jürgen Trabant, 1942- )によるフンボルト研究書の一冊、『フンボルトの言語思想(Apeliotes order Der Sinn der Sprache: Wilhelm von Humboldts Sprach-Bild)』も村岡氏によって訳出されている(テオリア叢書、平凡社、2001/08、ISBN:4582744273)。同書の「訳者あとがき」に目下日本語で読めるフンボルト文献が掲げられているので、関心のある向きは参照されたい。
⇒新書館
http://www.shinshokan.co.jp/
⇒Projekt Gutenberg-DE > Wilhelm von Humboldt(独語)
http://gutenberg.spiegel.de/autoren/humboldw.htm
⇒THE ONLINE LIBRARY OF LIBERTY > Wilhelm von Humboldt(英語)
http://oll.libertyfund.org/Intros/Humboldt.php
⇒Google Book Search > Wilhelm Humboldtの検索結果(英語)
http://books.google.com/books?num=100&q=Wilhelm+Humboldt&as_brr=1
Google Book Searchで古いフンボルト関連書があれこれ読めると欣喜雀躍してPDFをダウンロードしたはよかったが、なかにはスキャン作業者の手がうつっていたり、偶数ページがかならず途中できれているものがあってちょっと脱力。どうやら作業者によってスキャンの質がかなり違うようだ。
⇒中央大学 > 人文社会・語学教室 > 村岡晋一
http://www.momo.chuo-u.ac.jp/gogaku/muraoka/index.html