★アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』(市川恵里訳、白水社、2006/09、ISBN:4560027544)
Azar Nafisi, Reading Lolita in Tehran: A Memoir in Books
以下の文章は、アーザル・ナフィーシーによる回想録『テヘランでロリータを読む』(市川恵里訳、白水社、2006/09、ISBN:4560027544)のパイロット版プレゼントに応募をしたさい、頒けていただく条件として白水社に提出したものです。という事情はどちらでもよろしいのですが、小説を読むということについて、たいへん考えさせられるところの多い書物でしたので、紹介がてら拙文を転載いたします。これは、全四部からなる書物のうち第二部を読んで書いたものです。
日本では、このようなパイロット版の先行配布ということをどの程度行っているのかわかりませんが、同様の試みが増えるといいなと思います(もちろん、いつでも私たち一般読者がパイロット版を手にできるとは限りませんけれど)。
同邦訳書は、その後9月のはじめに刊行されています(私も改めて全体を読みたいと思います)。
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「想像力、それは愛だ、歴史の果てまで」
――ザ・ハイロウズ「コインランドリー」
「Imagine there's no countries」
――John Lennon, Imagine
ひとつの思想、ひとつのライフスタイル、ひとつの文化をひとびとに強制したい為政者やイデオローグたちにとって、書物ほど厄介なものはない。秦の始皇帝による焚書坑儒、中世ヨーロッパにおける異端書の禁書処分、ナチス・ドイツによるユダヤ関連、共産主義関連書籍の焚書、明治から戦前までの日本で行われた言論統制といった出来事は、書物にとって受難の歴史であると同時に、その力の逆説的な存在証明の歴史でもあった。これに加えてウンベルト・エーコが『薔薇の名前』に描いた宗教における禁書、レイ・ブラッドベリが『華氏四五一度』で想像した焚書の極北を思い出してみてもよい。
それにしてもそのように禁じられ、燃やし尽くされる書物は、なぜ「危険なもの」とみなされたのか。書物とは、「いま‐ここ」とは異なる世界の可能性を読み手に指し示し、既成の秩序(の不適切さ)に疑念を抱かせるもの、読み手のなかに想像の力を呼び覚ますものだからである。しかしどうにも皮肉というほかにないのだけれど、書物がその力と魅了を隠れようもなく顕わにするのは、得てして禁書や焚書の憂き目にあうという逆境におかれたまさにそのときなのである。
本書『テヘランでロリータを読む』の第二部でアーザル・ナフィーシーが描き出す一九七九年のテヘランもまた、そのような書物に対する逆風が吹き荒れる場所のひとつだった。ホメイニ体制のもと、言論の自由が封殺され、外国書籍の流通までもが止められゆくなかで、ナフィーシーはテヘラン大学の学生たちとともに英文学を読み進める。そうした状況でスコット・フィッツジェラルドの『グレード・ギャツビー』を読むということは、たとえば二〇〇六年の東京で同じ小説を読むということとはまったくことなる意味を、好むと好まざるとによらずはらんでしまうのだ。誰がいまこの場所で、一九七九年のテヘランでのように「あの小説は不道徳です。若者に悪いことを教えます。彼らの心に悪影響をあたえます。(中略)こういう小説と登場人物は、現実生活で僕らのモデルになるんです」(同書、一六九ページ)などとその「罪」を罵ったりするだろうか(いまこの場所で若者に悪影響を与えると言われるのは、書物ではなくもっぱらヴィデオ・ゲームである)。
このたびのパイロット版で読まれる第二部のハイライトは、なんといっても彼女が担当するクラスで、学生たちとともに小説『グレート・ギャツビー』を裁判にかけるくだりであろう。『ギャツビー』を告発する検察官と、それを擁護する弁護士、この裁判を裁定する裁判官の役をそれぞれ学生たちが引き受け、被告である小説を教師であるナフィーシー自身が演じるこの場面は本書のなかでもとりわけ印象深いものだ。検察側と弁護側との緊張感に富んだ応酬もさることながら、この演劇的な虚構ともいえる裁判そのものがまた、小説のそれと相通じるフィクションの力を力強く示しているからだ。この裁判では、言論弾圧下の実社会とは異なって、小説に弁護の権利と機会が保証されている。つまり、この裁判で展開される、「現実」にはありえない対話のなかでこそ、多くの場合、弾圧する力の前にかきけされてしまうにちがいない小説擁護の声が、正当にも議論の場を得ているのだ。そこでは、想像の次元にある小説が現実世界にもたらす影響の良し悪しをめぐって、虚構の裁判という想像的な次元で議論が戦わされ、そのこと自体がまた、現実に生きる関係者たち(学生と教師)に影響をおよぼすという、虚構と現実の複雑な重なり合いの機微も巧みに描き出されている。
「小説は読者を揺さぶって無感覚から引きずり出し、絶対不変と信じているものに直面させるとき、道徳的であると言えるのです。それが本当なら、『ギャツビー』は見事に成功したといえるでしょう」(同書、一八一ページ)――小説を告発し抑圧しようとする検察側の声を真正面から受け止めながら、小説を擁護するためにその意義と意味とを論じる弁護側の学生がこう述べるとき、そこで擁護されているのは想像力である。それは、「想像力によってつくりだされた偉大な作品は、ほとんどの場合、自分の家にありながら異邦人のような気分を味わわせます」(同書、一三三ページ)というナフィーシー自身の考えとも呼応するものだ。なぜ、もっとも心くつろげる自分の家にありながら、なおも異邦人のようになる必要があるのか。それは、自分がいまいる場所の正当性を信じて疑わないという知性の動脈硬化を防ぐためであり、自分がいまいる場所を成り立たせている条件が、数ある条件のうちのひとつに過ぎないことを忘れないためである。ここには、「あれかこれか(白か黒か)」という極度に単純化され硬直した選択肢を強制する人々に対して、偉大な小説がひとつの抵抗になりうることが幾重にも示されている。
人はいつでも自分が置かれた時代と場所の制約を受けながら生き、そうした生活のなかで書物を読む。だからもちろん、ナフィーシーが一九七九年のテヘランで読んだように、私たちが『ギャツビー』を読む必要はない。しかし、一九七九年のテヘランという、ある意味で最悪の読書環境におかれた『ギャツビー』が、それにもかかわらず、むしろだからこそ、その輝きをいや増している場面に出会うとき、読者はそのような読書環境に思わず(一種の倒錯と知りつつも)嫉妬を覚えるのではないだろうか。また、ナフィーシーの一章を読んだ読者は、これまで出会いそこねてきた『ギャツビー』を、あるいはかつてあまり感慨もなく読み終えた『ギャツビー』を、ぜひ(もう一度)読んでみたいという思いを募らせるだろう。
また、『テヘランでロリータを読む』という書物を、二〇〇六年の東京(この地名には、たまさか筆者がいま現在いる場所という以上の意味はない)で読むという経験は、小説を読むということの意味と愉悦とを否応なく考えさせてくれる得難い経験でもある。それは、あたかも病こそがかえってふだん気に留められることの少ない健康という状態の意味と価値を教えるように、一九七九年のテヘランを鏡として、読者がおかれた読書環境のありようを教えてくれもするのだ。とはいえ、現代日本の読書環境が健康だというわけではない。そこにはまた別の病、別の抑圧があることを私たちは知っている。たとえば、深沢七郎の「風流無譚」や大江健三郎の「セヴンティーン第二部——政治少年死す」がいまだに(再)公刊されない現状*1を私たちはどう考えたらよいだろうか。あるいは、ナフィーシーが直面したイラン社会の抑圧と日本の私たちがけっして無縁ではないことを思い出してもよい。サルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』に対してホメイニが発した死刑宣言のファトワ(法的裁定)は、ラシュディの生命を脅かすにとどまらず、イタリアやトルコの翻訳者たちに危害を与える契機になったと考えられており、またその余波は、同書の日本語訳を担当した五十嵐一の殺害事件にも影を落としている(殺害の犯人は見つからず、二〇〇六年七月一一日に公訴時効が成立)。いったいフィクションと現実とのあいだには、どのような関係が取り結ばれているのか。「物騒なフィクション」(ベンスラマ)とはよく言ったものだが、いったい物騒であるのは小説なのか現実のほうなのか、云々。
このナフィーシーの回想録を読み進めるにつれて、私たちはここに書かれた出来事が、まったくの他人事として読めないことに気づかされる。私たちはかつてテヘランで、ナボコフを、フィッツジェラルドを、ヘンリー・ジェイムズを、ジェイン・オースティンをこんなふうに読んでみた。あなたはどこでなにをどんなふうに読んでいるのかな。『ロリータ』を、『グレート・ギャツビー』を、『デイジー・ミラー』を、『高慢と偏見』をあなたはどんなふうに読んできたのかな。あなたのなかで、生きることと読むことはどんなふうにつながっているのかな。本書はそんなふうにして、読者に問いかけてくる。
⇒白水社 > 『テヘランでロリータを読む』特集ページ
http://www.hakusuisha.co.jp/topics/tehrantop.html
同書第3部の一部を読めます。
*1:この二作品は、『スキャンダル大戦争2』(鹿砦社、2002/08、ISBN:4846304612)に収録されている。