「第三の新人」論へのあとがき

リニューアル後、「文×論」の方針を掲げて着々と鈍器路線を歩み続ける文芸誌『群像』2021年3月号(講談社)に文章を書きました。

小特集「第三の新人」のコーナーで、「日常の再発見に向けて――「第三の新人」を読むために」と題しています。

拙文のほか、同特集は次のような構成です。

・江國香織「あかるい場所」(創作)
・島田潤一郎「山の上の家のまわり」(エッセイ)
・「アンケート いま読みたい第三の新人作品」 

だからなにというわけではありませんが、ここでは拙文の簡単な紹介とあとがきのようなことを記しておこうと思います。

日本文学史に関心のある向きを除けば、いまや「第三の新人」という分類も通じなくなりつつあるのではないかと思います。なにしろ1950年代に作られた呼称で、それから70年が経っています。

そこで、そもそも誰がどのようにして「第三の新人」と名付けたのかという(かつてはそれなりに知られていた)経緯を、改めて当時の文芸誌に遡って確認・整理しております。国立国会図書館と日本の古本屋のお世話になって、手に入るだけの関連文献を集め読み、拙文にはそのリストもつけておきました。

一口に「第三の新人」といっても、最初に提案されて以来、どの作家をそこに入れるかについては、さまざまなパターンがあり、それがいつしか当事者たちにも自覚されていきもしたわけで、その点も表のかたちではありますが示してみました。以上が前半。

また、後半では、「第三の新人」や戦後日本文学の歴史といった文脈が共有されていない前提で、いま「第三の新人」の小説はどのように読めるかを検討しています。具体例としては、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三の短編を一つずつ選んで、その冒頭部分を材料に、なにがどのように書かれているかを読んでみました。

多くは語り手の日常世界を書いていて、発表当時は、戦争を典型とする社会問題にとりくむ戦後派作家との比較から、物足りないと表された「第三の新人」たちですが、むしろその特徴のおかげで、戦後という文脈が共有されなくなった現在でも、ほとんどそのまま読めるものが多いという印象です。いまも主に文庫を通じて読み継がれている理由の一端が分かったように思います。

それで、今回の文章を書き始めるとき、「元祖セカイ系」などと、エエ加減なキャッチフレーズも思い浮かんだりしたのですが、これはあまりにもいい加減だわねと省みて、穏当な方向へと修正したのでした。

また、後半の作品の検討パートでは、安岡章太郎、小沼丹、遠藤周作、三浦朱門のものも俎上に載せるつもりでいたところ、文字数を当初の予定よりだいぶ超過したこともあり断念しました。

ザ・文芸批評のようなものをご期待の方には物足りないかもしれませんが、戦後に書かれた小説群に興味を持つきっかけになれば幸いです。

 

 

この文章を書く上では、だいぶ関連文献を集め読んだので、なにかの機会にこの延長線上であれこれ書いたり考えたりする機会があるといいな、などと虫のいいことを考えたりもしております。とりわけ、エコロジカルな検討の仕方、自分で勝手に「文芸の生態誌(history of ecology of literature)」などと呼んでいる見方については、もう少し試みてみたいと思っているところ。

それはさておき、同号の詳しい目次は、下記リンク先でどうぞ。

 

gunzo.kodansha.co.jp