馬場保仁+山本貴光「ゲーム教育トーク」

馬場保仁くんとの対談「ゲーム教育トーク(後編)――ゲーム作りは心の動きをデザインすること」(「ゲーム業界 活人研究」、Social Game Info)が公開されました。

『ゲームの教科書』(ちくまプリマ-新書)の共著者でもある馬場くんと、ゲームクリエイターの教育について話しあっています。

というと、大半の人にとってはご関心のない話題かもしれません。

ゲームクリエイターを目指す人には、なにを学べばよいかというヒントが見つかると思います。また、ものを教えることや学ぶことについても、ひょっとしたら手がかりになるかもしれません(そうだといいナ)。

てなわけで、お読みいただければ幸いです。


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前編はこちら。


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イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #04

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)の第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」の第3段落を読みます。

 

■メモランダム4.第2章第3段落:ゲームを定義する目標

4-1.ユールの定義の目標

邦訳では第3段落だが、原書では邦訳第2段落と同じように、第1段落である。

もちろん、ゲームを定義する試みは、これまでにも数多くあった。しかし、この章で提示される定義は、〔これまでの定義とはちがって、〕ビデオゲームとそれ以外のゲームはどういう関係にあるのかとか、ゲームと非ゲームの境界はどうなっているのかといったことを説明することを目標にする。

(第2段落、訳書40ページ/原書p. 23, 28)

 

いったんここで区切ろう。

 

ユールがゲームを定義する際、何を目標とするのかが述べられている。抽出して並べればこうなる。

i) ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの関係を説明する定義である

ii) ゲームと非ゲームの境界はどうなっているのかを説明する定義である

  

原文に沿って自分でも読んでみよう。

While many definitions of games have been attempted, the one I will propose here has the goal of explaining what relates video games to other games and what happens on the borders of games.

 

一方では、これまでさまざまなゲームの定義が試みられてきた。他方で私がこれからここで提起してみせる定義では、次の点について説明するのを目標としている。つまり、何がヴィデオゲームをその他のゲームと関係づけているのか、そうした諸々のゲームのあちこちの境界では何が起きているのか。〔こうした点を説明する定義を提案しよう〕

 

 定義の目標を同じく抽出して並べるとこうなる。 

・what relates video games to other games

 何がヴィデオゲームをその他のゲームと関係づけるのか

 

・what happens on the borders of games

 そうした諸々のゲームのあちこちの境界では何が起きているのか

 

“the borders”と定冠詞がついた複数形になっている点を上のように読んでみた。

 

また、「〔これまでの定義とはちがって、〕」という訳者による補足を踏まえると、ユールが提示しようとしている定義は、上記の2つの点で先行する定義とは違っている、ということになる。

 

では、果たして先行する定義にはどのような特徴があるのか。それはユールの言うように、上記2点を目標としていないのか、といった問いを念頭に置いて、先を読むことにしよう。

 

4-2.定義によって理解したいこと

文はこう続く。

そこで求められるのはどんな定義なのかについて、あらかじめスケッチしておこう。われわれが〔ゲームの定義を通して〕理解したいと思っているのは、おそらく次のような事柄だろう。ゲームそれ自体(ゲーム開発者によってデザインされた人工物)が持つ固有の特徴はなんなのか、プレイヤーはゲームとどのように相互行為するのか、遊びはたとえば仕事とはちがうとされるが、それはいったいどういうことなのか――こういった事柄だ。

(第2段落、訳書40ページ/原書p. 23, 28)

 

先ほど見たような2点を満たすのは、いったいどのような定義だろうか、というわけである。

 

3つのことが言われている。

a) ゲーム固有の特徴はなにか

b) プレイヤーはゲームとどのように相互作用するか

c) 遊びは仕事とちがうと言われるが、どういうことか

 ここでは区別のために、先ほどのi、iiとは別に小文字のアルファベットを振っている。

 

ゲームを定義することで、こうした問いに答えたい、という主張だ。

これは、先ほど述べられたiとiiの件とは、どう関係するのだろうか。

 

iとiiは、これから提示されるユールによるゲームの定義の目標だった。もう一度示そう。 

i) ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの関係を説明する定義であること

ii) ゲームの境界で生じていることを説明する定義であること

  

a、b、cは、いずれもiiに関係しているようにも見える。つまり、

aのゲーム固有の特徴とは、ゲームではないものとの違いでもある(ゲームと非ゲームの境界)。

bは、ゲームそのものとゲームからすれば、その外にあるとも言えるプレイヤーとの境界(ゲームとプレイヤーの境界)。

cは遊びと仕事の境界(ただし、ここは「ゲームと仕事の境界」ではなく、「遊びと仕事の境界」と言われていることに注意しておこう。これについては、ゲームと遊びの関係をユールがどう見ているかにもよる)。

 

――という具合に、a、b、cは、見ようによっては、ゲームとそれ以外のなにかとの境界に関する問いであると読むこともできる。

 

この場合、iはどうなるか。iは「ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの関係」ということで、「ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの境界」の話である。と読むと、iはiiの一部であるとも言えそうだ。

 

以上を念頭に置きながら、原文を自分でも読んでみよう。

 

What should the definition look like?

その定義はどのようなものであるはずだろう。

 

We are probably interested in understanding the properties of the games themselves (the artifact designed by the game developers), how the player interacts with them, and what it means to be playing rather than, say, working.

我々として関心があるのはおよそ次のようなことだ。つまり、(ゲーム開発者がデザインする人工物である)ゲームに固有の性質、そうした〔ゲームで遊ぶ〕プレイヤーはゲームとどのようにやりとりするのか、また、例えば、〔そうしたゲームで〕働くというよりは、遊ぶというのはどういうことなのか――こうしたことを分かりたい。

 

ここまでを、私の訳でまとめてみるとこうなる。 

一方では、これまでさまざまなゲームの定義が試みられてきた。他方で私がこれからここで提起してみせる定義では、次の点について説明するのを目標としている。つまり、何がヴィデオゲームをその他のゲームと関係づけているのか、そうした諸々のゲームのあちこちの境界では何が起きているのか。〔こうした点を説明する定義を提案しよう。〕その定義はどのようなものであるはずだろう。我々として関心があるのはおよそ次のようなことだ。つまり、(ゲーム開発者がデザインする人工物である)ゲームに固有の性質、そうした〔ゲームで遊ぶ〕プレイヤーはゲームとどのようにやりとりするのか、また、例えば、〔そうしたゲームで〕働くというよりは、遊ぶというのはどういうことなのか――こうしたことを分かりたい〔定義によってはっきりさせたい〕。

 

4-3.あるべきゲームの定義

以上のようにユールによるゲームの定義の目標やそれによって理解したい問いを確認した上で、次のように続く。

 

そこで、次のように仮定しよう。あるべきゲームの定義は、以下の3つの事柄を説明する必要がある。

1. ゲームのルールから成り立つシステム

2. ゲームとプレイヤーの関係

3. ゲームをプレイすることとゲーム外の世界の関係

 (第2段落、訳書40ページ/原書p. 23, 28)

 

今度は、あるべきゲームの定義で説明すべきことが述べられている。

ここで言われていること自体は、分かりづらい点はないだろう。

ゲームの定義はこの3つのことを明確にするべきだと主張している。言い換えると、この3つの点を説明していない定義は、よろしくない定義だということだ。これはユールも述べているように「仮定」なので、この時点ではなぜそうあるべきかは、特に問わずにおこう。最終的には、なぜこのように定義するのか、説明を期待しよう。

 

ここも原文を見ておこう。

So let us assume that a good definition should describe these three things:

そこで、次のように仮定してみよう。つまり、優れた定義は、次の三つのことを記述するものとする。

 

(1) the system set up by the rules of a game,

(1) ゲームのルールによって構成されるシステム

 

(2) the relation between the game and the player of the game,

(2) ゲームとそのゲームのプレイヤーとの関係

 

and (3) the relation between the playing of the game and the rest of the world.

(3) そのゲームであそぶことと、その他の世界との関係

 

4-4.議論を整理する

ところで、この第3段落は、通して読むと若干混乱してくる。

 

そのつど各セクションで抽出してみたように、ユールはこの第3段落で、いくつかのことを述べている。改めて並べるとこうなる。

 

A) ユールの定義の目標

 i) ヴィデオゲームとそれ以外のゲームの関係を説明する定義である

 ii) ゲームと非ゲームの境界はどうなっているのかを説明する定義である

 

B) この定義によって理解したいこと、明確にしたいこと

 a) ゲーム固有の特徴はなにか

 b) プレイヤーはゲームとどのように相互作用するか

 c) 遊びは仕事とちがうと言われるが、どういうことか

 

C) 優れたゲームの定義が説明すべきこと

 1. ゲームのルールから成り立つシステム

 2. ゲームとプレイヤーの関係

 3. ゲームをプレイすることとゲーム外の世界の関係

 

AとBとCはどう関係しているのか、少々混乱してきた(あくまで私の場合だが)。

 

なぜ混乱したのかを考えてみた。

 

どうもA-iが、BとCにどう位置づけられるのかが、この時点では不明である。

 

A-iiとB-cとC-3はおそらく同じことを述べている。 

A-ii) ゲームと非ゲームの境界はどうなっているか

B-c) 遊びは仕事とちがうとはどういうことか

C-3) ゲームをプレイすることとゲーム外の世界の関係

  

また、B-bとC-2も同じことを述べている。

B-b) プレイヤーはゲームとどのように相互作用するか

C-2) ゲームとプレイヤーの関係

 

残るモンダイは、B-aとC-1である。 

B-a) ゲーム固有の特徴はなにか

C-1. ゲームのルールから成り立つシステム

  

こう並べてみると、ユールはこの二つを関連づけているように感じられる。

つまり、ゲーム固有の特徴とは、それがルールからなるシステムである。だから、よきゲームの定義では、そうしたルールによる構成物であるシステムとしてのゲームを説明すべきだ、という具合に。

 

そういう眼で第1章を読み直すと、「ゲームとはなにか」というセクションにこうある。 

古典的ゲームモデルは、6つの特徴からなる。それらの特徴は、それぞれ次の3つの異なるレベルで機能する。ルールの集合としてのゲームそれ自体のレベル、プレイヤーとゲームの関係のレベル、ゲームをプレイする活動とゲーム外の世界の関係のレベルだ。

(邦訳16ページ/原書p.6)

 

抽出すればこうなる。 

α)ゲーム自体=ルールの集合

β)ゲームとプレイヤーの関係

γ)ゲームプレイとその他の世界の関係

 

先ほど見たB-aとC-1の関係は、ここでいうαに相当する。つまり、ユールにとって、B-aとC-1は同じことを指しているらしいことが分かる。

 

ただし、この時点で読者としては、「ゲーム固有の性質=ルールの集合」という言い換えにはそのまま同意できる準備ができていない。ユールはここで、いわばこの後で述べる定義を先取りして示しているわけである。

 

――という具合に考えると、先ほど述べた混乱は収まる。残るモンダイは、先ほども述べたヴィデオゲームとその他のゲームの関係が、この定義にどう関わるかであるが、これは定義が示されるところで検討すればよいだろう。

 

4-5.こう書いてくれたら混乱しなかったかも

それにしても、ユールはなぜこのように、少々ややこしい書き方をしているのだろうか。

先ほどのA、B、Cの項目名だけを並べ直してみる。

A) ユールの定義の目標

B) この定義によって理解したいこと、明確にしたいこと

C) 優れたゲームの定義が説明すべきこと

 彼は、これから論じるはずの定義について、その目標を述べた(A)。つまり、自分の定義は、これこれのことを説明する定義だ、と。そして、その定義で何を理解したいのかを述べた(B)。そこで優れた定義であれば、説明すべきことを述べた(C)。先に見たようにBとCはほぼ同じことを別言している。

 

ここだけを抽出して考えてみると、ユールがこの第3段落で述べているのは、次のようにまとめられるだろうか。

・ゲームの定義によって理解したいことが3点がある。

・優れたゲームの定義であれば、この3点を説明すべきだ。

 私はなんとなく、このように論が立てられているように読めたために、ユールはなぜ同語反復的に議論しているのだろうと疑問を持ったのだった。これが先に述べた混乱の正体である。

 

おそらく、私は第3節で、こう言われたら混乱せずに読めたのだと思う。

ゲームを定義することで、次の四つの問いに答えたい。

 

1) ゲームに固有の性質とはなにか?

2) ゲームとプレイヤーはどのように関係しているか?

3) ゲームプレイとその他の世界はどのように関係しているか?

4) ヴィデオゲームとその他のゲームはどのように関係しているか?

  

ただし、ユールが自分の新しい定義を「古典的ゲームモデル」と呼んでおり、また、第1章で述べられていたことだが、ヴィデオゲームは古典的ゲームモデルに収まっていない(邦訳16ページ)のだとすれば、上記の4は1から3の問いに答える「古典的ゲームモデル」とは区別する必要がある。 

ユールが、古典的ゲームモデルという定義の他に、ヴィデオゲームをも含む総合的ゲームモデルのような区別を立てておいてくれると、もう一つ話がすっきりするのだが、少なくとも現時点では、そうした見通しは得られていない。

 

これは私の読み方による部分が大きいと思われるけれど、どうも私はユールの議論の運びに対して、素直についてゆけないと感じることが少なくない。機会があれば別途論じるけれども、例えば、第1章の冒頭部分でも、似たような混乱を感じたのだった。そして、検討してみた結果、どうもユールの言葉使いやものごとの分類の仕方に私が違和を感じるためであることが分かってきた。

 

とはいえ、これは表現についての好みのモンダイであるとも思う。引き続き、ユールの言わんとすることによく耳を傾けてゆこう。さまざまな疑問を抱いてテクストと対話することも、こうした精読の愉しみであり、ある違和感から生じる読み込みによって、自分では気付かなかったことを教えられるのだから。

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」

 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

 

■関連文献

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

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執筆・翻訳計画を立て直します

ご機嫌いかがお過ごしでしょうか。

6月から7月1日にかけての各種イヴェントや各方面との打ち合わせは、出不精のわたくしにとっては、盆と正月が一緒に来たようでした。少し前に熱を出して寝込んでから、完全とはいかぬまでも、だいぶ回復して参りました(とはいえ、なぜだか眠い日が続いております)。

先日のTsuwano T-spaceでの「知は巡る、知を巡る」を終えて、比較的短めの原稿類も片付いて、ようやく静かな日々に戻って参りました。都議選も終わって、やかましいばかりの選挙カーも去り、そういう意味でも静かです。ありがとう。

 

気づけばもう7月。2017年も前半が終わったわけですネ。

 

ところで、ほとんどの人にとってはどうでもよろしいことではありますが、本ブログのプロフィール欄に、これまで手掛けた仕事の一覧を記録するようにしています。

ついでに仕事に番号をふって数えております。

2016年は58番で終わりました。

2017年は現時点で51番。

もちろん、仕事の大小を問わず1と数えていますので、あくまで目安程度の数字ではありますが、今年はすでに去年1年と同じくらいの仕事をした勘定です。働きすぎであります(自分で言うな)。

 

というわけで、7月以降はなにもせずに遊び暮らしたいと思います。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

といって済めばよかったのですが、そういうわけにも参りません。

モブキャストとのプロ契約(クリエイター育成/ゲーム制作)はもちろんですが、お約束している本の執筆と翻訳を中心に取り組む所存です。

 

まずはここ数年「いま終わる、もう終わる」と蕎麦屋の出前みたようなことばかり申してきた『夏目漱石『文学論』論(仮)』(幻戯書房)です。本文を脱稿して、目下は付録の作業を進めております。

また、吉川浩満くんと共訳の『先史学者プラトン』(朝日出版社)、『時間のカルトグラフィ』(フィルムアート社)も翻訳作業を進めております。

共著では三宅陽一郎さんと『ゲーム人工知能入門(仮)』(ちくまプリマー新書)、吉川くんとの共著『生き延びるための人文』(新潮社)、『資本主義と民主主義(仮)』(dZERO)を準備中。

『文学論』に続く単著としては、『私家版日本語文法小史(仮)』に取り組み中で、これに関しては先日のTwuwano T-spaceでのイヴェント「知は巡る、知を巡る」でごく簡単ではありましたがアウトラインをお話ししてみました。

続いて『科学の文体(仮)』(講談社ブルーバックス)、『ゲーム原論(仮)』(NTT出版)、『記憶メンテナンスのすすめ(仮)』(筑摩書房)を書く予定です。

全部「仮題」なのだから、いちいち「(仮)」と書かなくてもよかりそうなものだといま気づきました。

他にもあれこれお約束をしていたり、新たに企画を進めているものがありますが、順次進めて参る所存です。

 

このところ予定を立てることに意味がないような状況が続いてしまい、誠に申し訳なく思います。執筆・翻訳スケジュールを立て直します。また、大学での講義が終わる8月からは、さらに多くの時間を執筆・翻訳に充てたいと考えています。

引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。

東京工芸大学「ゲーム学I」最終課題について

東京工芸大学「ゲーム学I」最終レポート課題についてお知らせします。 

課題 

次のいずれかのゲームをプレイして、分析・記述せよ。

 

★『Continuity』
 http://continuitygame.com/playcontinuity.html

 

★『Switch』
 http://neutralx0.net/escape/r1.html

 

★『Asteroids』
 https://www.atari.com/arcade#!/arcade/asteroids/play

 

また、プレイ中の自分の心身に生じた変化を観察し、記述すること。

例えば、手に汗を握った、笑った、何かをしたくなった、など。ゲームのどの場面でどのように心身の変化が生じたかを関連づけて記すこと。

 

本レポートでは、ゲーム画面など、図を用いること。

(講義中に黒板で示した各種の図を参照されたい)

画面はキャプチャーでも、手描きでもよい。

ただし、講義でお伝えしたように、画面を手描きでスケッチしたほうが、理解は深まる。

 

なお、分析・記述の際には、ここまでの講義で学んだことを活用すること。

本レポートの目的は、講義を通じて行った検討についての理解度を測ることにある。

各回の講義内容をよく思い出し、検討の材料とされたい。

 

それ以外の観点からの分析の追加も歓迎する。

 

このレポートは、自分が考えたこと、感じたことに基づいて書かれるのを期待するが、必要に応じて、他人の文章の引用をしてもよい。ただし、引用の際は出典を明記すること。

 

*講義でも述べたように、不明の点については確認をお勧めします。ご質問は遠慮なくどうぞ。

 

イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #03

 

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)の第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」を読んでいます。

前回は第1段落を読んだところ。続いて第2段落。

■メモランダム3.第2章第2段落:ゲームの古典的モデル

3-1.第2章の主題

以下では、邦訳の第2段落を区切りながら読んでみる。

先に述べれば、原書では邦訳の第1段落とこれから読む第2段落は、いずれも第1段落である。邦訳では、ここで改行されて段落が分けられている。

 さて、この章の主題は、まさにこの「すべてのゲームに共通するもの」という点にある。以下では、7つの先行研究がおのおの提示しているゲームの定義を踏まえて、新しいゲームの定義を提示したい。この定義を「古典的ゲームモデル」と呼ぶことにしよう。

(第2段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

第1段落では、ウィトゲンシュタインを引用して、「すべてのゲームに共通するもの」などないのではないか、という疑問が提示された。だが、それこそが本章の主題であるという。つまり、ユールは、ウィトゲンシュタインが無理といったゲームの定義をしてみようというわけである。その際、いきなり定義を示すのではなく、先行研究がどのように定義しているかを集めて検討しようという次第。

これは、古くはアリストテレスの研究スタイルでもあった。例えば、『形而上学』では、存在を探究することが主題であり、アリストテレスは自説を開陳するに先立って、先行者たちが、世界(存在)をどのように説明してきたかを要約・提示している。タレスは世界を水から出来ているといい……という、いまでも哲学史に受け継がれている記述である。アリストテレスは、そのようにして先行研究をまとめてから話を進めるというやり方を採用していた。そしてこのやり方は、ユールに限らず、現在も広く行われている。

ついでに言えば、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンによる『ルールズ・オブ・プレイ――ゲームデザインの基礎』(山本貴光訳、ソフトバンク クリエイティブ)の「ゲームを定義する」の章でも、サレンとジマーマンは、先行研究におけるゲームの定義を要約した上で、自分たちの定義を提出していた。これについては、後に定義が示される段階で、改めて比較検討してみよう。

 

3-2.古典的ゲームモデル

「古典的ゲームモデル」とは何か。これについては、次の文で言及されている。

このモデルを「古典的」と呼ぶのは、ゲームが伝統的にそのようなあり方をしていたからだ。もっと言えば、このモデルは、5000年を超えるゲームの歴史に当てはまる。

(第2段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

なぜ「古典的ゲームモデル(classic game model)」と命名したのか。その理由をユールは述べている。「ゲームが伝統的にそのようなあり方をしていたからだ」とは、どういう意味だろうか。ここは少し分かりづらい。「そのようなあり方」とは、どのようなあり方のことか。文の形から可能な読み方を考えてみる。

このモデルを「古典的」と呼ぶのは、ゲームが伝統的に「古典的」なあり方をしていたからだ。

 

このように読みたくなる読者もいるかもしれない。

ただし、このままでは意味が分からない。なぜなら少なくともここまでの文を読む限りでは、「古典的」という言葉の意味が不明だからだ。このように読んだ場合、結局「ゲームの古典的なあり方」ってどんなあり方? と疑問が湧くことになる。

では、そうではないとして、「そのようなあり方」とは、どのようなあり方なのか。

原文を見てみよう。こう書かれている。

The model is classic in the sense that it is the way games have traditionally been constructed.

(原書p. 23)

 

邦訳は、この文を忠実に訳していることが分かる。いま、疑問だったのはユールが、これから提示しようとしている「古典的ゲームモデル」なるものを、なぜ「古典的」と形容してあるのか、という理由だった。彼は「ゲームが伝統的にそのようなあり方をしていた」、だから「古典的ゲームモデル」と呼ぶのだ、と言っている。だが、ここは分かりづらいと感じたのだった。

 

いま眺めた原文の流れに沿って日本語として読んでみる。 

そのモデルは古典的である。どのような意味でそう(古典的と形容されるようなもの)なのか。そのやり方でゲームがこれまで組み立てられてきた(という意味で)。

 

ここで下線を引いた"in the way"は"the model"を指していると読めば、上の文は、こう言い換えられる。

そのモデルが古典的であるというのは、これまでゲームがその〔モデルのような〕やり方で組み立てられてきたという意味である。

 

つまり、これから示されるはずの「ゲームモデル」のようなやり方で、これまでゲームがつくられてきた。昔ながらのゲーム制作のモデルなので、「古典的ゲームモデル」と呼ぶことにする、という次第である。

そして、「もっと言えば、このモデルは、5000年を超えるゲームの歴史に当てはまる。」ともユールは言っている。念のためにいえば、短く見積もっても5000年にわたるゲームの歴史というのは、「序論」でも触れられていたように(そして常識的に考えても推測できるように)ヴィデオゲームの話ではなく、いわゆるアナログゲーム、非電源ゲームを含む話である。この点を紛れなく言うとしたら、古典的ゲームモデルは、ヴィデオゲームはもちろんのこと、それ以前の過去5000年に及ぶゲームに妥当するということだ。

 

3-3.ゲームは変わらずにあり続けている?

もちろん、人間の文化のある面が何千年も変わらずにありつづけたなどという話は、ふつうは成り立たない。しかし、ゲームに関しては、これを支持する確かな根拠がある。序論でセネトというエジプトのボードゲームに言及したが、このゲームは、バックギャモンや『Parcheesi』といった現代のボードゲームの先駆らしい(Piccione 1980)。

(第2段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

仮にゲームの歴史が5000年あるとして、他のものの場合には、その間、変化せずにいたりはしないものだが、ゲームは変わらずにあり続けている。と、こう述べられている。

なぜそんなことが言えるのか。古代エジプトで『セネト』というゲームが見つかっている。これは後の『バックギャモン』や『パーチージ』などのゲームの「先駆らしい」からだ。

――ということについて、ユールは自分でも述べているように、「序論」でこう書いていた。 

古代エジプトのボードゲームであるセネトは、紀元前2686年に作られたヘシレの墓で見つかっている。セネトは、現代のバックギャモンや『Parcheesi』――これらのゲームは、こんにちではコンピュータを使ってプレイされることが多い――の先駆にあたるものだ。

(邦訳11ページ/原書p.4)

 

この箇所で『Parcheesi』に次のような訳注がつけられている。 

インドのすごろくゲームパチーシ(pachisi)をもとにアメリカで作られたゲーム。

 

Wikipedia英語版のParcheesiの項目には、次のような説明がある。 

Parcheesi is a brand-name American adaptation of the Indian cross and circle board game Pachisi, published by Parker Brothers and Winning Moves.

『パーチージ』は、インドの十字と円のボードゲーム『パチージ』をアメリカで翻案した際のブランド名で、パーカー・ブラザーズとウィニング・ムーブスが発売している。

 (Wikipedia英語版のParcheesiの項目)

 

別の文献によれば、『パチージ』(『パチジ』とも)は、インドに古くからあるゲームで、これを19世紀にイギリスやアメリカで商品化したようだ。この辺りのことについては、Bruce Whitehill, Parcheesi: The Royal Gameが詳しく記している。

ここでユールが参照している文献は、以下のもの。

Peter A. Piccione, “In Search of the Meaning of Senet.” Archaeology 33 (July-August 1980): 55-58.
この論文はウェブでも閲覧できる。

ざっと見ただけなので、見落としているかもしれないが、この論文そのものには、『セネト』が『バックギャモン』や『パーチージ』の先駆とは言明されていないようだった。上記のテキストが、ユールの参照したものと違っている可能性もある。

 

例えば、別の文献では、『セネト』と『バックギャモン』と『パーチージ』を関連づけている例が見つかる。

Oswald Jacoby and John R. Crawford, The History of Backgammon, 1970

このテキストでは、『セネト』に「『バックギャモン』の先駆」と説明が添えてある。また、『バックギャモン』と『パーチージ』が関連づけられている。

 

あるいは

Coral Clark, Senet: An Egyptian Game of Strategy (RAFT)

という『セネト』を解説したテキストでは、『パーチージ』や『バックギャモン』の親戚であるとの一文もある。

 

先ほども触れた

Bruce Whitehill, Parcheesi: The Royal Game (in Knucklebones games magazine, september 2007)

でも、『セネト』が『バックギャモン』タイプのゲームの祖先であると述べられている。

――とまあ、ユールが実際にどのテキストを見たのかはともかくとして、古代エジプトの『セネト』が、『バックギャモン』や『パーチージ』に似ているのは確かである。というのは、これら三つのゲームをプレイしてみても感じるところだ。

 

3-4.地域や文化を超えた共通性

さらに、過去数千年のあいだに作られたボードゲームやカードゲームは、ヨーロッパ・アフリカ・アジアに共通する歴史をふつう持っている。また、アメリカの人類学者スチュアート・キューリンが記録しているように、北米インディアンの文化にもゲームはある(Culin 1907)。こうしたことが示すのは、古典的ゲームモデルに則ったゲームは、大多数の文化においてすでに知られているということだ。

(第1段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

先ほどの、ゲームの場合、数千年にわたって共通性が見られるという話の続きだ。ユールはここでは触れていないけれど、例えば、『チェス』と『将棋』と古代インドの『チャトランガ』なども、そういう意味では共通性があると言えるだろう。

この点に関しては、増川宏一さんの『盤上遊戯の世界史――シルクロード 遊びの伝播』(平凡社)が詳しく追跡している。

 

ここでユールが言及している文献はこれ。

Stewart Culin, Games of the North American Indians (University of Nebraska Press, 1992)

 

スチュワート・キューリン(Stewart Culin, 1858-1929)は、アメリカの文化人類学者。ゲームについては、ユールが触れている北米のネイティヴ・アメリカンのゲームだけでなく、朝鮮、中国、日本、アフリカのゲームについても本を残している。f:id:yakumoizuru:20170703210239j:plain

キューリンについては、やはりユールが参考文献に挙げているアヴェドンとサットン=スミスによるゲーム論集『ゲーム研究(The Study of Games)』でも、第3章の「文化人類学の情報源」の部に、「マンカラ――アフリカの国民的ゲーム」、「アメリカン・インディアンのゲーム」が抜粋紹介されている。

ついでに申せば、The Study of Gamesの同じく第3章の文献リストの項目には、複数文化にまたがるゲーム、アフリカ、ヨーロッパ、オセアニア、アジア、中米、北米、南米のセクションがあり、関連文献が掲げられており、非常に便利である。

キューリンの本も著作権が切れており、Internet Archiveなどでも公開されている。

 

3-5.第2段落のまとめ

 

この第2段落を要約しておこう。もとより短い文章の要約なので、ほとんど原文の繰り返しになるかもしれない。

a) 本章の主題は、ゲームの新たな定義を示すこと。

b) 先行7研究で示された定義(古典的ゲームモデル)を踏まえて、新しい定義を示す。

c) 過去5000年のゲームに妥当するモデルなので「古典的」と称す。

d) 古代エジプトの『セネト』は現代の『バックギャモン』『パチージ』の先駆。

e) 過去数千年、ヨーロッパ、アフリカ、アジアで作られたボードゲーム、カードゲームには共通の歴史がある。北米インディアン文化にもゲームがある。

f) d, eは、大多数の文化で古典的ゲームモデルに則ったゲームが知られていたことを示している。

と、要約を書いてみて、この段落について、もう少し気になることが出てきたが、これについては後で追記したい。 

 

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⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」
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「知は巡る、知を巡る――西周とまわる日本語の旅」

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2017年06月13日(火)追記:

はやくも満員御礼とのことです。

「これ以降は欠員が出次第のご案内となります。Tsuwano T-spaceまでお電話いただければ、追加リストにいれさせていただきます。」(事務局より)

 

2017年07月01日(土)の夜に開催予定のイヴェントに登壇いたします。

■日時 2017年7月1日(土) 19:00-21:00

■場所 Tsuwano T-space(島根県津和野町東京事務所)
東京都文京区小石川2−25−10パークホームズ小石川103−3号

■参加費 500円(当日徴収)ワンドリンク付き

■定員 15名

◼︎タイムライン

19:00 趣旨説明
19:10 山本貴光「文法の来た道:日本語文法小史」
19:30 石井雅巳「三種の文字の狭間で:西周の日本語論」
休憩
20:00 山岡浩二「津和野発の日本語!?:西周と鷗外の翻訳実践」
20:35 質疑・全体ディスカッション
21:00 終了後懇親会あり

申し込み方法などは下記をご覧くださいませ。主催のTsuwano T-space(島根県津和野町東京事務所)のfacebook内にある告知ページへのリンクです。

⇒facebook > Tsuwano T-space
 https://www.facebook.com/events/2175927969300935/

 

「百学連環」を読む

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イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #02

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)第2章読書メモのつづきです。(承前

前回は章のタイトルでした。

■メモランダム2.第2章第1段落:ゲームを定義できるか

2-1.本文

今回から本文に入ります。まずは第1段落。

 図2.1~2.8の8つのゲームは、互いにまるでちがうものに見える。それゆえ、それらのゲームすべてに共通するものはなにもない、それらが「ゲーム」という名前で呼ばれているのは、たまたま言葉のうえで一致しているというだけの取るに足らない事柄だ――このように考えたくなるかもしれない。ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインに言わせれば、「それらすべてに共通するものはなんなのか? 『なにか共通のものがなければならない、でなければそれらをすべて「ゲーム」と呼ぶことはなかったはずだから」などと言うな。それらすべてに共通するものがなにかあるのかどうかよく見てみろ」(Wittgenstein [1953] 2001, 27)。

(第1段落、訳書37ページ/原書p. 23)

 

冒頭で言及されている「図2.1~2.8」とは、ヴィデオゲーム8作品の画面のこと。邦訳では、38-39ページに画像として引用されている。作品名を挙げると次のとおり。

・『Asteroids』(Atari, 1979)
・『バーガータイム』(データイースト、1982)
・『スーパーメトロイド』(任天堂、1994)
・『Counter-Strike』(The Counter-Strike Team, 2000)
・『The Sims2』(Maxis, 2004)
・『スーパーモンキーボール2』(アミューズメントヴィジョン、2002)
・『Grand Theft Auto III』(Rockstar Games, 2001)
・『ゼルダの伝説 風のタクト』(任天堂、2002b)

おお、懐かしい。というのはおいといて、「これら8つのゲームに共通する性質はない」と考える人もいるだろう、という次第。

「ほんとそうだよな」と思うか、「それはどうだろう、この8つのゲームは、プレイヤーが操作するという点では共通しているよね」などという具合に考えるか、読者によって意見は分かれるかもしれない。ユールは、この第2章でゲームを定義しようとしている、ということを知っていると、この第1段落は、その議論をするための前振りとも読める。つまり、「ゲーム全般を定義なんてできるの?」というそれ自体もっともな疑問を提示して、それに対して自説を述べるという段取りである。

 

2-2.ウィトゲンシュタインの引用

ここでユールが引用しているウィトゲンシュタインの言葉は、『哲学探究』(Philosophische Untersuchungen, 1953)に現れるものだ。彼は同書で「言語ゲーム(Sprachspiel; Language-game)」という概念によって言語を捉えようとして、言語をゲームに見立てている。

その際、ウィトゲンシュタインは、譬えとして使っている当のゲームについてもさまざまに考察している。ユールが引用している前後を含めて見てみよう。こんな具合だ。

たとえば、われわれが「ゲーム〔遊戯〕」と呼んでいる出来事を一度考察してみよ。盤ゲーム、カード・ゲーム、球戯、競技、等々のことである。何がこれらすべてに共通なのか。――「何かがそれらに共通でなくてはならない、そうでなければ、それらを〈ゲーム〉とはいわない」などと言ってはならない――それらすべてに何か共通なものがあるかどうか、見よ。――なぜなら、それらを注視すれば、すべてに共通なものは見ないだろうが、それらの類似性、連関性を見、しかもそれらの全系列を見るだろうからである。すでに述べたように、考えるな、見よ!――たとえば、盤ゲームをその多様な連関性ともども注視せよ。次いで、カード・ゲームへ移れ。そこでは最初の一群との対応をたくさん見出すであろうが、共通の特性がたくさん姿を消して、別の特性が現われてくる。そこで球戯へ移っていけば、共通なものが多く残るが、しかし、たくさんのものが失われていく。――これらすべてが〈娯楽〉なのかチェスミューレ〔三目並べ〕を比較せよ。あるいは、どこでも勝ち負けとか、競技者間の競争があるのかペイシェンス〔神経衰弱のような一種のカルタ遊び〕を考えてみよ。球戯には勝ち負けがあるが、子供がボールを壁に投げつけて再び受け止めている場合には、この特性は消え失せている。技倆や運がどのような役割を果たしているかを見よ。そして、チェス競技における技倆とテニス競技における技倆とが、どれほどちがっているかを見よ。また、〔ひとが手をつないで行う〕円陣ゲームを考えてみよ。ここには娯楽という要素があるが、しかし、どれほど多くの他の特性が消え失せていることか! このようにして、われわれは、この他にも実にたくさんのゲーム群を見てまわることができる。類似性が姿を現わすかと思えば、それが消え失せていくのを見るのである。


 すると、この考察の結果は、いまや次のようになる。われわれは、互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目を見、大まかな類似性やこまかな類似性を見ているのである、と。

(第66節、邦訳69-70ページ/原書S. 277)

 

ご覧のように、ここではゲームそのものについて、ゲームの定義が検討されている。

訳文中、「ゲーム〔遊戯〕」とあるのはSpieleが原語。同じく「盤ゲーム、カード・ゲーム、球戯、競技、等々」は、”Brettspiele, Kartenspiele, Ballspiel, Kampfspiele”と、いずれもSpielである。(原文はLudvig Wittgenstein Werkausgabe Band 1, shurkamp taschenbuch wissenschaft501, 1984から。以下同様)

引用の際、ゲームの名前と比較に用いられる性質については色をつけてみた。こうした多様なゲームの例を並べながら、ウィトゲンシュタインは、これらに共通の性質があるかどうか見てみろという。

当然のことながら、彼がやってみせているように、ボードゲームとカードゲーム、あれとこれ、という具合に比べてゆくと、そのつど共通する性質を見いだせる。しかし、全部に共通する要素なんてあるだろうか(いやいや、ない)、というわけだ。

ゲーム全般に通じる性質はない。ただし、あれとこれ、それとあれという具合に、いろいろなゲームを比べてみると、あちこちに「類似性」が見つかるだろうと言っている。いま引用した次の節で、ウィトゲンシュタインはそうした類似性を「家族的類似性(Familienähnlichkeiten)」と呼んでいる。

2-3.比較対象はどう選ばれ、どう比較されるのか

ここで面白いのは、壁にボールを投げてキャッチする例。ウィトゲンシュタインは、これをゲームの一例として扱っている。他方で、見方によっては、これはゲームではないとも考えられる。例えば、21世紀の日本でゲーム開発を生業とする私から見ると、壁にボールを投げてキャッチするだけでは、ゲームとは感じられない。

といっても、私の見方が正しくて、ウィトゲンシュタインが間違っているという話ではない。時代や文化や言語によって、おそらく人びとが「これはゲームだ」と感じるもの、見なすものも違うのだろう。ウィトゲンシュタインは、彼が生きた時代と場所でおよそゲーム(というかSpiel)と見なされているものを材料にして、この議論を組み立てている。

ある時代のある文化(これが曖昧なら、ある人間の集団でもよい)において「これはゲームだ」と見なされている営みがある。実際にはある「文化」が特定の営みを「これはゲームだ」と見なすわけではない。そう見なすのはあくまでも個々の人間である。

例えば、同じ時代の同じ地域に住み、同じ言語を母語とする人たちがいるとして、彼らが全員、人間の営みのなかでどれがゲームであり、ゲームではないのかについて、完全に意見が一致するとは限らない。人によって違う判断をする場合もあるだろう。例えば、学校でゲームのつくり方などを教えていると、ときどき学生から「先生、スポーツはゲームですか」と質問されることがある。あるいは人によっては、ゲームとはなんなのかが分からないという場合もある。

f:id:yakumoizuru:20170630001129j:plain

図:このくだりを読みながらノートに描いた図。だからなにというわけではないけれど

 

何を言いたいのか。ウィトゲンシュタインがここで述べていることを、次のようにまとめてみることができる。

a) ある人がゲームだと見なしている営みの例を集める。(対象の取捨選択)
b) それらの営みに共通する性質はあるかどうかを比較検討する。(対象の比較)
c) aで集めたゲーム全体に共通する性質はない。(ゲームを一般的に定義できない)
d) さまざまな類似性はある。(一般的定義の代わりにできること)

cの判断はaで蒐集したサンプルによる。aはこの操作を行う人によって異なる可能性がある。なぜなら、人はあらゆることを経験できず、自分がその時点まで経験したこと、見知ったことだけを材料にできるからだ。

また、それとは別にcで各サンプルに共通する性質とは、誰がどのように見出したり規定したりするのか。素朴に考えれば、人が普通「ゲームとはこういうものだ」と考えている具体例に基づいて、「ゲームなら勝ち負けがあるだろう」という具合に、ゲームに備わっているであろう性質をとりあげる。

では、こう考えたとき、cの判断の妥当性はどのように評価できるのか。ウィトゲンシュタインがここで述べている「すべてに共通なものは見ない」という判断の妥当性は、どのように確認できるだろうか。

――と、ごちゃごちゃ述べたけれども、歴史的経緯や習慣として「ゲームとはこういうものだ」という考えから出発して、ゲームと見なされているものを集め、そこに共通性があるか否かを確認して、「ない」と判断する。その妥当性やいかに、という次第。

これは物事を一般的に定義しようとする際についてまわる問題である。自然科学で、個別の現象から、それらをまとめて説明する一般的記述を抽出(推論)する場合と似た形のことがらだと思う。ただし、性質についての判断は、個々の人間がおのおのの経験や知識にもとづいて判断することでもあるので、その点で自然科学とは違うわけだけれども。

2-4.原文を見ながらもう一度読む

ユールの文章に戻ろう。

第2章の第1段落を、原文も見ながら私なりにパラフレーズするとこうなる。

a) ユールは8つのヴィデオゲームを選んで、ゲーム画面を引用・提示した。
"The eight games in figures 2.1-2.8"

b) これら8つのゲームはそれぞれ全く違うゲームに見える。
"[These games] look to be quite different:"

c) そこで次のように結論づけたくなる人がいるかもしれない。
"One might to tempted to conclude"

d) これら8つのゲームには共通するものはない。
"that they have nothing in common"

e) にもかかわらず「ゲーム」と同じ名前で呼ばれるのは、たまさか言葉遣いが一致しただけだ(という具合に結論づけたくなる人がいるかもしれない)。
"and that thier sharing the term "games" is insignificant linguistic coincidence."

f) ウィトゲンシュタインの引用:これら全てに何か共通しているだろうか。「なにかしら共通しているはずだ。そうでなければ、これらを全部「ゲーム」と呼ばないだろう」などと言ってはならない。そうではなく、それら全てに何か共通しているかどうかをよく見よ。
"In the words of Ludwig Wittgenstein, "What is common to them all?--Don't say: 'There *must* be something common, or else they would not be all called "games"'--but *look* and *see* whether there is anything common to all" ([1953] 2001, 27)."

 ――という次第。

 

要約するとこうなろうか。

1) ユールが選んで提示した8つのゲームには共通する性質があるか。
2) 共通性はないと考えたくなるかもしれない。
3) 例えばウィトゲンシュタインは、ゲームと呼ばれるものには共通性がないと考えた。

(この読書メモの目的の一つは、各段落を要約することでもある。この要約を後にまとめることで、読書会で配布するレジュメの骨格ができる、という心算)

 

特に意味不明の点はない。

素朴な疑問としては、次のことが気になった。

・ユールはどのように8つのヴィデオゲームを選んだのか。

・人は複数のものごとについて、どのように「共通性」を見出すのか。

 

ウィトゲンシュタインの引用は、「それらすべてに共通するものがなにかあるのかどうかよく見てみろ(look and see)」という具合に、この段落の導入にもなっている。次の段落以降で、「よく見てみる」ということであろう。


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