★小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書、2004/06、amazon.co.jp)
小松美彦さんの新著『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書、2004/06、amazon.co.jp)を読了する。以下、雑駁な印象を記す。
序文のあたりに、ウェットな雰囲気が感じられたのでどう展開するのだろうかとドキドキしながら読み進めたが、ウェットに感じられたのは導入だけだった。本の最初に星の王子さまが登場するのは、本書全体の寓意としてであり、また、入りやすさを考慮してのことなのだろう。
中身は脳死問題を多角的に検証してゆく手堅いものだった。
人間の死を「全身の有機的統合性の喪失」と定義したうえで、「有機的統合性を司る中枢を脳全体」ととらえ、「脳全体が機能停止すれば有機的統合性は喪失するので脳死は人の死」の基準たりうる――これが脳死が人の死とされる論理だ。
小松さんは上記の基準に対する反証を丁寧に解説する一方で、実際に施術された脳死者からの臓器移植がいかに問題含みであったか、それにもかかわらず不問に付されているか、を詳細に吟味する。この論述の過程でつまびらかにされる「本当の話」は、なかなか恐ろしいものがある。
ここで問われているのは、死という現象における脳と身体の関係だ。そこでは小松さんも述べているように、「意識」や「心」がなんであるかという問題はほとんど検討されていない。臨床では、刺激に対する反応の度合いをもって、意識の有無を測るわけだが、それでは脳死判定で用いられる頭皮での脳波測定で脳波がフラットになったことをもって意識がないと判断することは妥当か? もし脳波が平坦であるにもかかわらず、身体が反応を示さないにもかかわらず、その人が意識を持っているとしたら? 実際、頭皮での脳波測定がフラットでも、深脳部での測定で脳波が確認されることがあるという。
あるいは、脳死しているはずの「死体」が、いざ臓器をとりだすためにメスをいれられる瞬間、血圧と脈拍があがるというのはどういうことか。あるいは、その現象をおさえるために、「死体」(であるはずの脳死者)に麻酔や筋弛緩剤を投与するのはどういうことか。読めば読むほど、脳死の判定と運用は実にあやしいのである。
生物としての人間個体をトータルにとらえようとするときに、心/脳/身体という三区分で考えるとすると、目下の脳死問題ではもっぱら「脳/身体」の関係に議論が集中しているともいえる。ここに心はどうからむのか/からまないのか。
広範なサーヴェイもさることながら、「脳死」が単に科学/医学的に定義できず、おのずと科学外/医学外の社会との関係で考え抜かれなければならないというその結構を、非常にわかりやすく論じている点で、本書は広く読まれるべきものではないかと思う次第。
以上、読了後の第一印象でした。あとでもすこしまともなノートを作って、できれば書評をものすこと。>自分
邦訳が出たマーガレット・ロックの『脳死と臓器移植の医療人類学』(みすず書房、2004/06)ではどのような議論をしているか、比較検討してみること。
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