モーリス・ブランショブランショ政治論集 1958-1993』安原伸一郎+西山雄二+郷原佳以訳、2005/06、amazon.co.jp
 Maurice Blanchot, &Eaacute;crits politiques: Guerre d'Algérie, Mai 68, etc. 1958-1993(Éditions Lignes & Manifestes, 2003)


モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot, 1907-2003)による単行本未収録論文集。


アルジェリア戦争、ド・ゴール政権への抵抗、新たなる国際雑誌の企画(以上、第一部)、1968年5月(第二部)、ハイデガーナチズムとショア、レヴィナスユダヤ教、アンテルム(以上、第三部)——こうした政治的状況やそれにかかわる人物へ向けられたブランショの言葉とそれらの言葉がとるさまざまなスタイルをに触れると、個別の細部はともかくとして全体的に彼がいかに目の前の出来事に拮抗しうる言葉を生み出すことができるか、ということに真剣に取り組んでいたことがよく見えてくる。


いくつかの印象深い言葉を引いておこう。


◆文学が表象するもの

文学が表象しているのは、可能性というものにはおそらく依拠していない一種独得な力である(ところで、可能性というもののみが弁証法と何らかの関係をもつのだ)。すなわち芸術は、無限の異議提起であり、それ自身の異議提起、および他のあらゆる形をした力の異議提起なのだ——そしてこのことは、単なる無秩序ということではなく、芸術と文学とが表象する根源的力(権力なき権力)の自由な探求においてのことなのである。

(pp.70-71)


◆問題の語り方

正当な仕方で問題を語ることとは、自分の言葉や思考に峻厳にも欠如しているものにも語らせながら、それゆえ網羅的と思われる仕方でその問題について話すことのできない私たちの不可能性に語らせながら、その問題について話すことなのだ

(p.92)


◆断章を選ぶ理由

熟慮の末に断章を選び取るということは、懐疑心からくる慎みや、疲弊してしまって完全な把握を断念するということではなく(断章の選択はこれらのものである場合もある)、忍耐強さ‐性急さ、可動‐不動の探求の方法であり、また次のような主張でもあるということ。すなわち、意味や意味の十全さは、私たちのうちにも、私たちの書くもののうちにも、直接的には存在しえず、未だ来るべきものであり、意味を問う私たちが意味を把握するのは問いの生成や未来としてのみなのだ、という主張である。

(p.93)


◆出来事について書く/五月

ビラ、ステッカー、パンフレット。——何かについて書く、ということはいずれにせよ適切さを欠いている。しかし、ひとが何かについて書くこと——銘文、注釈、分析、讃辞、弾劾——をもはや許すまいとする(とりわけ)そのためにこそ生じた出来事についてなお書くということ、それはこの出来事をあらかじめ歪曲し、つねに既に取り逃がされたものとしてしまうことに他ならない。

(p.176)


本書に集成された言葉は、たんに歴史的な知識や状況分析を知るためのものにはとどまらない。さまざまな愚劣を前にして言葉とそれが創造するものによって向かいあうための示唆に満ちてもいる。まずは一読したのちに、折に触れて繙くこと。そんな言葉を鍛えるための道具箱としても使える書物だと思う。


たとえば、サルトル宛に雑誌への参加を求めて書かれた書簡や、ついに陽の目を見なかった『ルヴュ・アンテルナシオナル』(「国際雑誌」)のための覚書(pp.65-90)などは、雑誌という表現スタイルの潜在性や意義を考えるうえでもいまなお多くの刺激を与えてくれる一文である。


訳者三名による懇切な解説・解題は、ブランショが折々に書いた文章の文脈・背景を理解するうえでもたいへん有益な内容。訳者の労に感謝したい。


月曜社 > 『ブランショ政治論集』
 http://getsuyosha.jp/kikan/ecripo.html