★グザヴィエル・ゴーチエ『シュルレアリスムと性』(三好郁朗訳、平凡社ライブラリー547、平凡社、2005/08、amazon.co.jp)
Xavière Gauthier, Surréalisme et sexualité (Gallimard, 1971)
アンドレ・ブルトン(1896-1966)によって起草された「シュルレアリスム宣言」(1924)のなかに、次のような定義がある。
シュルレアリスム 男性名詞。心の純粋な自動現象で、それを通じて口頭、記述、その他あらゆる方法を用いて思考の真の働きを表現する方向を目指す。理性による一切の統御を取り除き、審美的また道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる思考の口述筆記。
〈百科辞典的説明〉哲学用語。シュルレアリスムはこれまで無視されてきた或る種の連想形式に認められる高度の現実性、夢の絶大な力、思考の無私無欲な働きなどに寄せる信頼の上に基礎を置いている。これらのもの以外のあらゆる精神機能を決定的に打破し、それらに代わって人生の重要な諸問題の解決に取り組む。
(アンドレ・ブルトン『超現実主義宣言』生田耕作訳、中公文庫、中央公論新社、1999/09、43ページ/ただし、訳文中の「超現実主義」を上記引用では「シュールレアリスム」と表記した)
ブルトンをはじめとする、シュルレアリスムの運動に参加した作家や芸術家たちは、それぞれがさまざまな手法によって「理性による一切の統御」や「審美的また道徳的な一切の配慮」に攻撃をしかけた。事後の眼からみておもしろいことのひとつは、彼らの作品や運動が敵対していた強固な理性や伝統の砦の性質を明らかにすると同時に、彼ら自身の限界をも否応なくあらわにしたことだろう。
その一つの弱点が、性の問題、とりわけ女性の問題だった。
グザヴィエル・ゴーチエ(Xavière Gauthier, 1942- )氏による本書『シュルレアリスムと性』(1971)は、まさにこの問題を検証している。ゴーチエ氏によると、マルクス主義が性の問題(男性による女性の搾取、不平等)を認識しながらも、それは社会革命の成就とともに克服される付随的な問題と捉えていたのにたいして、シュルレアリスムは性の問題こそが社会革命の原動力のひとつだと考えていた。
にもかかわらず彼らの作品のうちには、性の解放よりはむしろ、根強い男根信仰に基づいた保守的な女性観が見え隠れしている。ゴーチエ氏は資料の博捜から、シュルレアリスムの作品に内包される性に関する矛盾(重視すると同時に軽視すること)を具体的に浮かび上がらせてゆく。
とはいえ、言うまでもなくシュルレアリスムとは時期により異なる複数のメンバーによって担われた運動なのだから、一概にシュルレアリスムの名のもとにメンバー全員に同じ批判を向けるわけにはいかないことに注意が必要だ。J.B.ポンタリス氏が本書に寄せた序文のなかで指摘する問題は傾聴に値する。
本書の著者がシュルレアリスムの内的矛盾、さらに進めて許しがたい欠点としているものは、より単純に個人的な気質の違いと言えないのだろうか。(中略)シュルレアリスムのすべての芸術家を、男性中心主義という犯罪的偏見による「でっちあげ」を理由に、ひとまとめに有罪とするというのは、ときに牽強のそしりを免れないのではないか。あるいはまた、ブルトンがあらゆる性的倒錯に示すあの嫌悪の情(なるほどその説諭的口調には驚かされるが)に、はたしてグループ全体で共有されたイデオロギーの表出を見るべきだろうか。
(同書、15ページ)
本書を丁寧に読んでゆけば、引用される作品や文脈からそのつど批判の対象となる人物はわかる。だが、ゴーチエ氏の意図なのかどうかはわからないのだが、それらの個別具体的な批判の集積がシュルレアリスム全体に向けられている印象は拭えない。ここは読み手の側で留意すべき点だと思う。
シュールレアリスムと性の関係については、先頃邦訳書が復刊されたアンドレ・ブルトン編『性についての探究』(野崎歓訳、白水社、2004/07〔新装版〕、amazon.co.jp)が参考になる(本書でも部分的に参照されているようだ)。同書は、ブルトンがシュルレアリストたちを招集して行った性に関する討議の記録を集成した資料であり、セックスにまつわる参加者の具体的な行動や嗜好が赤裸々に語り合われている。その席でのブルトンの女性蔑視的発言と、他のメンバーとの意識の違いを読むと、上記ポンタリス氏の指摘が妥当なものであることが見えてくる*1。
もちろん、これは旧い性意識の問題であるのみならず、現代の読み手の意識をも映し出す鏡として作用する書物でもある(とはもちろんどのような書物にも言えることに過ぎないが、万人に関わる性がテーマであるだけに一層よく映る鏡となるのではないだろうか)。前衛的な思想の冒険者であったシュルレアリストでさえも(全員とは言えないにせよ)そのような限界を打破できずにいたこの問題が、自分の眼にどう映るのか。それを確認してみるという意味でも読む価値がある一冊ではないかと思う。
なお、『シュルレアリスムと性』訳書の親本は、1974年に朝日現代叢書の一冊として朝日出版社から刊行されている。
以下に本書の目次を掲げておく。
■第一部 シュルレアリスムの希望
・第一章 シュルレアリスムにおける性的ファクターの意味と重要性
・第二章 破壊力としてのエロス
・第三章 マルクス主義革命者における性的ファクターの位置
・第四章 性的倒錯、社会への破壊的かかわり
・第五章 芸術は革命と同じく肉体的な暴力行為である
■第二部 シュルレアリスムの作品
・A 女性
・第一章 原初のアンドロギュノスの回復
・一夫一婦制の神話
・第二章 自然としての女性、「善良な女」
・花としての女、すなわち処女、童女
・女の二分類=恐ろしい魔女/子供である女
・果実としての女、すなわち消費の対象
・大地としての女、すなわち母、霊媒、ミューズ
・星としての女、すなわち至純かつ神聖な創造者
・第三章 「悪魔ノ道具トシテノ女」(mulier instrumentum diaboli)
・捕えがたい女
・カマキリ、「有歯のヴァギナ」の動物
・淫売
・妖婦
・女見者
・魔女
・シュルレアリスムの女性は男性の「こしらえもの」である
■B 普遍化されたリビドー
・第一章 自由な性
・禁忌と侵犯
・第二章 性的倒錯
・オナニスム
・獣姦
・糞便愛好
・屍姦
・フェティシズム
・集団性愛
・露出症と覗き趣味
・フェラチオ
・鶏姦
・第三章 同性愛
・男性の同性愛
・女性の同性愛
・第四章 サド・マゾヒスム
・肉体の変容
・シュルレアリスムの失敗
■第三部 シュルレアリスムの諸相
・第一章 シュルレアリスムの作品は、母親との関係こそ、世界との関係を構造化する原型になっていることを明らかにする
・第二章 こうした関係は空想的なものとも言える。そのため芸術家は、狂人、反社会的存在、さらには子どもだとされる
・第三章 狂気のシュルレアリスムからシュルレアリスムの狂気へ
・第四章 欲望と掟、芸術の特権
・第五章 芸術と幼年期、欲望の幻覚的充足
・第六章 「芸術家はその幻想を新しい種類の現実として形づくる」(フロイト)
・第七章 詩は一つの犯罪である
第八章 シュルレアリスムの詩において女性は善であり、愛されている。シュルレアリスムの絵画において女性は悪であり、憎悪されている
・第九章 男性における男根切除――レオノール・フィニ、ブニュエル、ダリ、トワイヤン、ブローネル、マグリットの作品から
・第十章 ベルメールの作品、性的倒錯
■むすびに
単に連想しただけだが、アルフレッド・C.キンゼー(Alfred C. Kinsey, 1894-1956)が5000人を越える男女に面接を行ってまとめたといわれる性行動の調査「キンゼイ報告書」(1948/1953)に取材した映画『愛についてのキンゼイ・レポート(KINSEY)』(ビル・コンドン監督)が公開になるようだ。
⇒哲学の劇場 > 資料集 > 平凡社ライブラリー
http://www.logico-philosophicus.net/resource/hl/index_hl.htm
平凡社ライブラリーの目録(作成中)
⇒哲学の劇場 > 資料集 > 『季刊パイデイア』第06号
http://www.logico-philosophicus.net/resource/paideia/06.htm
「シュルレアリスムと革命」を特集した同誌の目次情報
⇒『愛についてのキンゼイ・レポート』
http://www.kinsey.jp/
*1:なお、『性についての探究』を「原作」(正確には、"inspired"とクレジットされていた)とした映画『セックス調査団』は、原作とは似ても似つかない愚作なので、おバカ映画愛好家以外には素直におすすめできない(あなたがおバカ映画愛好家ならこの限りではない。ツッコミどころ満載)。