亀山郁夫『大審問官スターリン小学館、2006/02/20、ISBN:4093875278


仮に、これまで地上に生まれて死んでいった人びと、生きている人びとの経験の総体というものを想像できるとしてみよう。そこには無数の「藪の中」のような状況がある。「藪の中」とはご存じ、芥川龍之介の作品。「同じ」出来事をめぐる複数の関係者の証言が異なり食い違うという状況を描いた作品だが、すべての人びとの経験の総体というものを想像するとき、そこにはどうしたってあれこれの藪が生じるにちがいない。


亀山郁夫(かめやま・いくお, 1949- )氏による一連のソヴィエト政治・文化史誌の労作に触れるつど、この藪の存在をあらためて思い出させられる。歴史は相対的なものだといった次元の話ではない。史料の博捜と、より確かであると考えられる事柄の吟味選別を経た「事実」の集積は、おのずと藪を形成するのだ。この藪とどう対峙するかということが、いってみれば歴史的な問題を扱う論者の立場をいやおうなく照らし出す。


本書『大審問官スターリンは、スターリン体制下のソ連における芸術家たちの生き残りを賭けた闘いを、主にスターリンにフォーカスをあてながら考察した書物だ。


本書の特徴は、レーニンの死とスターリン政権の誕生から、その死までという時系列的な流れを大枠で用いながらも、それぞれの出来事の記述にあたっては、登場する人物たちとスターリンの関係に関する「事実」を無理に整合させるのではなく、むしろ映像のモンタージュのように並べてゆく点にある。「同じ」時空間を生きたスターリンと芸術家たちの経験が相互にきしみをあげるさまは非常にスリリングで、読み手にもある種の緊張を強いる。つまり、あらかじめ整合すること、言い換えれば因果の連鎖にしたてられた歴史記述とは異なるスタイルが採られており、読み手自身がいってみれば証拠を集めた探偵・亀山郁夫のファイルを横から覗く助手(なんなら探偵でもいいのだけれど)というポジションに位置することになる。


それにしても厄介なことは、この時代の出来事を考えるうえで重要な証拠でもある芸術家たちの作品が、二枚舌戦略をとっていることだろう。彼/彼女たちは、国の検閲機関グラヴリトによる厳しいチェックの下で作品を発表するという環境におかれていた。もし体制を批判する作品をストレートにつくれば、検閲にかかり公表できない。いや、下手をすればスターリンのご機嫌を損ねて生命の危険につながることさえあるだろう。さりとて国家の御用芸術家として唯々諾々と作品をすることも潔しとしないとしたらどうするか。その一つの手が二枚舌である。一見現行の体制とは関係のない表現の中に、表層とは別の意図を込めるというわけだ。


この証拠を後に読解することが厄介事であるのは門外漢にも了解されるところ。大学入試の国語問題ではないが、「この文章で作者が言いたいことを書きなさい」という設問に対して「ここに書いてあるとおり。なぜなら言いたいことがあれば作者はそのように書くはずだから」と答えて済まない問題がある。そうした難題に対して著者がどのように迫っているかということも本書の読みどころである。



たとえば、『イワン雷帝』のシナリオを、検閲を通過してスターリンに——

「ボリシャコフ同志、台本は悪いものではないということがわかった。エイゼンシテインはうまく仕事をこなしてきた。時代の進歩的な勢力としてのイワン雷帝、彼の便宜的な道具であるオプリチニキは悪いものではないとわかった。この台本の撮影にできるだけ早くとりかからねばならない。 スターリン。一九四三年九月十三日」

(同書、p.249)


と言わせたあとで、エイゼンシテインは台本を書き換えるという挙に出ている。もちろんできあがった映画をスターリンが観るのを前提とした台本の変更であろう。「スターリンにこれを見せれば、たぶん懺悔するだろうさ」とも言ったといわれるエイゼンシテインは映画になにをこめたのか(台本を書き換えた第二部は上映禁止)。


ことはエイゼンシテインに限らない。検閲の網にかかり、スターリンにマークされ、ついには暗殺の憂き目にあう作家。自ら命を絶つ者。二枚舌の戦略を用いて危険な闘いに打って出る者。それはさながら一人のスターリンと何十人もの芸術家たちとの同時に進行する百面差し将棋の勝負を見ているようだ。スターリンとアレクサンドル・ブローク(詩人)、スターリンとニコライ・グミリョーフ(詩人)、スターリンとボリス・ピリニャーク(作家)、スターリンとエイゼンシテイン(映画作家)、スターリンウラジーミル・マヤコフスキー(詩人)、スターリンミハイル・ブルガーコフ(作家)、スターリンとエヴゲニー・ザミャーチン(作家)、スターリンとミハイル・ショーロホフ(作家)、スターリンとアンドレイ・プラトーノフ(作家)、スターリンとアレクサンドル・ドヴジェンコ(映画作家)、スターリンとオーシプ・マンデリシターム(詩人)、スターリンとボリス・パステルナーク(詩人)、スターリンとアンナ・アフマートワ(詩人)、スターリンとセルゲイ・プロコフィエフ(作曲家)、スターリンとショスターコヴィチ(作曲家)、スターリンとマクシム・ゴーリキー(作家)……と、文字通り枚挙に暇のない死闘と妥協と協働が織り成す無数の藪を、亀山氏は倦むことなく探査する。


ここに断章的に書かれているそれぞれの試合のゆくえをじっくり追えば、それぞれが何冊もの書物になるだろう(そのうちの何人かについては亀山氏もすでに書物にしている)。本書のおもしろさは、この書物が示すことがらの余白を読者みずから探索することへと誘うところにもある。巻末にかかげられる主要参考文献のほとんどはロシア語文献だが、(自らの語学力を忘れて)そうした書物に手を伸ばしたくなること請け合いである。



ところで、本書にはもう一つの読みどころがある。上記では、スターリン個人よりも文化史的な側面について述べてきたけれど、書名からもうかがえるように、本書はスターリンの評伝的作品という顔をもっている。とりわけ、「オフラナ・ファイル」の存在が喉元にささったトゲ——それは帝政時代にスターリンが「オフラナ」と呼ばれる警察権力のスパイだったことを裏付ける資料であり、処理の仕方によっては彼に致命傷を与える危険なトゲだ——のようにスターリンを不安に駆り立てていたという見立てを中心に据えたスターリンの心中にまで迫る記述は、評価の分かれるところかもしれない*1

車中、つかのまの眠りに落ちようとしていたスターリンは、再び、オフラナ・ファイルの存在を脳裏に思い浮かべた。キーロフが死に、事実上、ジノヴィエフ一派を殲滅できる今、あの呪わしいファイルから自分は自由になれる。しかし、完全な権力を手にするまで、ファイルをめぐるこの言い知れぬ不安が完全に消え去るまで、自分の権力をどこまでも磨きあげていかなくてはならない。スターリンはその執拗な思いにどこか病的な影が宿っていることを感じていた。だが、完全への限りない執念が自分をここまで導き、自分をだれよりも寡黙な男に育ててきたことだけは疑いなかった。いや、そうした精神状態においてこそ、現実の政治の歯車の隅々まで透視できたのだ。パラノイアとは自己同一化のもっとも充実した瞬間であり、それはまさにエネルギー源でもある。つまり、現実はみずからの偏執的な想像力をとおしてしか見通せない、その意味で彼はほかのだれよりも他者の内面に入り込むことができた。とはいえ、他者の内面に入り込むということが、他者の痛みに同感するということを意味することはなかった。

(同書、pp.110-111)


誰もスターリンの内心を知りえないという意味では上記はフィクショナルな記述であろう。だから本書は小説のようなものであって歴史書としての価値はない、と断定するのは早計だ。まずはこのような表現を用いてまでもスターリンの内面、藪の中へ足を踏み入れようとした著者の心意気を汲みたい。もちろん、過去の他者(自分の含む)の一人称記述とは当人の生死や史料の多寡によらず、検証不能である。さりとて、どれだけ一人称記述を禁欲しているように見える歴史書であれ、個人の言動に言及するかぎりは、完全な行動主義、つまり外面にあらわれる言動のみを記述する手法を貫徹するのでないかぎり、必ずどこかで「なぜそのように行動したのか」という動機の忖度があるものではなかろうか。研究対象の外堀をこれだけ埋めている著者が、検証可能な学という枠組みを超えて、スターリンの心境をどう読んだかを明かした数ページが、本書のもう一つの読みどころであると述べた所以である*2



このテーマについては、これまでにも亀山氏は『破滅のマヤコフスキー(筑摩書房、1998、ISBN:4480838066「自足する猿の小さな悪意——スターリン統治下の検閲文化とその一断面」(講座『文学』2、岩波書店、2001)『磔のロシア——スターリンと芸術家たち』岩波書店、2002、ISBN:4000244108『熱狂とユーフォリア——スターリン学のための序章』平凡社、2003、ISBN:4582831907「20世紀ソヴィエト音楽における《抒情》の運命」(雑誌『レコード芸術』連載中)をはじめとする書物や論考で、角度を変えながら変奏している。本書とあわせ読むことでいっそう奥行きのあるスターリン政権下の政治・文化闘争史が見えてくるだろう。この一連の仕事には、新たな一冊が出るつど、既刊の書物を新たな眼で読み直すというたのしみがあるのは言うまでもない。


それにしても誰か本書を映画にしてくれないだろうか。


⇒Χ 亀山郁夫研究室
 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kameyama/


青空文庫 > 芥川龍之介「藪の中」
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/179_15255.html


ウィキペディア > スターリン
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3


ウィキペディア > Иосиф Виссарионович Сталин(ロシア語)
 http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D1%82%D0%B0%D0%BB%D0%B8%D0%BD%2C_%D0%98%D0%BE%D1%81%D0%B8%D1%84_%D0%92%D0%B8%D1%81%D1%81%D0%B0%D1%80%D0%B8%D0%BE%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

*1:オフラナ・ファイルとスターリンについては、本書でも亀山氏が用いているR. Brackman, The Secret File of Joseph Stalin: A Hidden Life (Frank Cass: London, 2001)が大変おもしろそう。未読なので目を通したらまたレポートしてみたい。

*2:繰り返せば、主観を忖度するくだりは検証できないフィクションである。だが、それをわきまえた上で読み手が必要に応じて史料と解釈をかみ分けて読みこなせばよい。