日本の書店で、コンピュータ関連書の棚の前に立ってみると、面白いことが分かります。
そこに林立する書物のほとんどは、なんらかのマニュアルなのです。
今なら、iPadやiPhoneの活用ガイドのようなハードの解説書、Word、Excel、Photoshop、Illustrator、Flash、Twitterといった各種アプリケーションの使い方を説いたものもあれば、C、C++、C#、Python、PHP、Javaなどの各種プログラミング言語を解説した書物、電子書籍の作り方やゲームの作り方、3Dグラフィックスの描き方、ネットワークの構築の仕方などなど、ありとあらゆる How to use を教えてくれる本が満載です。
この棚をじーっと見ていると、現代においてコンピュータというものを、人々がどう活用したいと考えているのか/考えていないのか、ということが垣間見えるようです。そうした用途は、多種多様で、「同じ」コンピュータという道具が、これほどまでに多くの用途に使えるということに、改めて驚きます。いえ、コンピュータに囲まれて久しい私たちは、そうした多様性にいまさら驚いたりしないかもしれません。でも、ここは常に、何度でも驚き直してよいことではないか、と思います。
さて、こうした各種コンピュータの使い方解説書が、いろいろ書かれることは、とても頼もしいことです。私自身も、これまで何百冊か(とは、もはや数えるのも馬鹿馬鹿しいほどたくさん、という意味です)のそうした書物や雑誌のお世話になってきました。
小学生の時分、独学でプログラムを始めた頃(1980年代のことでした)には、コンピュータ雑誌にプログラムが印刷して掲載されていたものです。ときに何十頁にもわたって延々と書かれたプログラムが印刷されており、自分のコンピュータにこれを入力すれば(!)、見事そのプログラムが自分のコンピュータでも動くというわけです。いまなら雑誌にCD-ROMをつけたり、ウェブからダウンロードすれば済むことです。
でも、実はこの「自分でわざわざ入力する」ということが、今にして思えば、とても重要な修行になったと思っています。それは、言ってみれば、カンフーや武道を習う際に、ひたすら型の練習をするのと似ています。はじめは意味もろくすっぽ分からないまま、ともかく「こういう場合は、こうする」というふうに、型を真似るわけです。
わけが分からなくても、繰り返し、繰り返しやっていると、いつしかそれは、自分の身体に染みこんでゆきます(人間は慣れる動物です)。私は、そんなふうにして、雑誌や書物に載っているプログラムを端から入力することで、いくつかのプログラム言語を習得しました。ついでに言うと、キーボードを見ずにキーを打つタッチタイピングも、なるべく早くプログラムを入力したい一心で、これも独習したのでした。(このときの経験を基に書いたのが、もう1冊の拙著『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)でした)
いまでもウェブサイトを作ろうとか、新しいプログラム言語を学ぼうとか、ネットワークを構築するための基礎知識を得たいとか、そういったさまざまな局面で、たくさんのコンピュータ解説書の力を借りています。
ですから、今後とも、人類がコンピュータの用途を新たにしてゆくのに合わせて、いろいろなマニュアルが作られていくでしょうし、そうして欲しいと思っています。
ただし、それだけではちょっと足りないのではないかとも思うのです。人文書、自然科学書、芸術書、建築書といった各方面の棚も好きな私としては、目下のコンピュータ書の棚は、いささか殺伐としているようにも感じます。なんと言ったらいいでしょう、目の前の用事を足すことに追われて、心にゆとりがない感じ、とでも言ったらよいでしょうか。
これらの書物に加えて、少し違った確度からコンピュータを捉え直す、ものの見方を提示するような、そんな書物がもうちょっとあってもいいのではないかな、とも思うのです。もちろん、皆無ではないのですが、割合としてはかなり小さくて、よく注意しないと見落としてしまいそうなくらいです。
そんなふうにこの棚を眺めると、目下は、人々がコンピュータという道具の決まった使い方に振り回されている状態で、その実自由度が少ない状態だ、とも言えるかもしれません(あくまでもこの棚を見た限りですが)。これはいささかバランスがよろしくない。そのことは、何回か前に、イタリアの芸術家、ムナーリの言葉を引きながら考えてみたことでもありました。
コンピュータとは、使い手の理解度と欲望がものを言う道具です。理解が浅い人は浅いなりに、深い人は深いなりに使えます。ただし、浅い理解にとどまっていると、新しいハードや新しいソフトが出るたび、未知との遭遇に翻弄されて、そのたびゼロに近いところから、新しいものを学び直すはめになりがちです。
でも、もう一歩踏み込んで、コンピュータをどう捉えたらよいか、という観点から理解できると、新しいハードやソフトが出現したとしても、それは多くの場合表面上のことに過ぎず、根本的な仕組みは変わっていないことを見抜けるようになります。そのためにはどうしたらよいか。
柴田ヨクサル氏の激闘将棋漫画『ハチワンダイバー』(集英社、目下17巻まで刊行中)にことよせて言えば、将棋の盤面だけを見るのではなく、そこに潜む可能性、潜在性をもっとよく見てとるために、盤面の底に「ダイブ」するのです。ダイブした主人公・菅田の姿が現しているのは、盤面の表層に気をとらわれることなく、将棋というゲームのシステム(ルール)から生じうる、あらゆる可能性を見つめる、という状態です。
これはコンピュータ理解にも適用できる喩えだと思います。表層だけにとらわれず、その表層を成り立たせている条件を見抜くこと。そのためには、ちょっとダイブする必要があるのです。それは、目の前にある日常的な用途を視野に入れつつも、それとは少し異なる関心から、コンピュータを見つめ直してみることだと言ってもよいでしょう。
そのためには、上記したようなマニュアル的理解だけでは足りません。やはり、コンピュータを、そうした特定利用の観点とは違った観点からも(「も」です)、捉えておく必要があります。
『コンピュータのひみつ』は、そのための基礎を提供する書物として構想されています。ここに書いてあることを踏まえてみると、コンピュータの見方ががらりと変わるはずです。
この効果は、すぐ目に見えるものではありませんから、目の前のことだけに追われてしまうと分かりづらいかもしれません。しかし、長い目で見てみると、いろいろなことが、これまでとは違ったかたちで腑に落ちる体験をすることができると思います。いわば、コンピュータ活用の底力をヴァージョンアップするための本なのです。
そんなふうに、コンピュータを、単なる実用とは異なる視点から考えさせてくれるすばらしい書物が、これまでにもいろいろ書かれてきました。今回、拙著に関連して、そうしたコンピュータ書を何冊かご紹介するブックガイドを作成中です。公開の仕方などは、詳細が決まってから、改めてお知らせしたいと思います。
(つづく)
⇒朝日出版社 > 『コンピュータのひみつ』
http://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255005447/
⇒Amazon.co.jp > 『コンピュータのひみつ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4255005443/tetugakunogek-22