おしらせ

★2017年11月22日【刊行】

 新著『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)刊行予定
 http://yakumoizuru.hatenadiary.jp/entry/2017/10/10/111159 

 

★連載中

・「人生がときめく知の技法」(吉川浩満と共著、webちくま、隔週)
 http://www.webchikuma.jp/category/chinogihou

・「人文的、あまりに人文的」(吉川浩満と共著、「ゲンロンβ」隔月)
 https://genron-tomonokai.com/beta/

・「マルジナリアでつかまえて」(『本の雑誌』)

・「プロムナード」(「日本経済新聞」夕刊、毎週火曜日)

ガリレオ・ガリレイの手紙

ヴァチカン教皇庁図書館のデジタルアーカイヴ Digita Vaticana のツイートから。

 

 

ガリレオ・ガリレイの手紙のようです。

「文学問題(F+f)+ものがたり問題」

2018年02月17日(土)に、イシス編集学校のISISフェスタにゲストとして登壇いたします。

今回は「文学問題(F+f)+ものがたり問題」と題して、『文学問題(F+f)+』や物語について検討したいと思います。

タイトルに含まれる「ものがたり問題」については、文学に限らぬ形での物語についても考える所存です。例えば、映画やゲームや人生などもそこでは検討の材料になるでしょう。

当日は、同校校長の松岡正剛さんとの対談も予定されています。

遊びにいらしてね。

 

昨年からライヴツアーのように続いた対談や講演も、このISISフェスタで一段落でございます。がんばるのだ。

 

 

追記(2018.02.18)

ご参加、ご視聴いただいたみなさま、ありがとうございました。

当日の様子を編集工学研究所のツイートでいくつかご紹介いたします。

『文体の科学』4刷★

拙著『文体の科学』(新潮社、2014)増刷の知らせが届きました。

同書は新潮社の季刊雑誌『考える人』に「文体百般」として連載したエッセイをもとにつくった本で、2014年11月に刊行したのでした。

それから3年と少しが過ぎたところで、このたび4刷となりました。

ひとえに読者のみなさんあってのこと、心より感謝申し上げます。

この本の姉妹編ともなりそうな「科学の文体」に関する本も準備中です。

 

 

伊藤大個展「Innuendo」

伊藤大さんの個展「innuendo」(六本木605画廊)に選書で参加しました。

同展は、ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(1974)とレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』(1953)をテーマとして写真を中心に構成された二つのインスタレーションからなります。

写真はもちろんのことですが、楽しい仕掛けが施された空間も見どころです。

会期:02月02日 - 02月18日13:00 - 19:00 金・土・日開廊
opening reception:2/3(土) 18:00 - 21:00

会場: 六本木605画廊
〒106-0032 東京都港区六本木7-5-11-605
tel: 03-3403-8690

伊藤さんの写真はこちらでもご覧いただけます。

私は、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』について本を選んでみました。

ちょっぴり加工を施して、こんな具合に棚に並べてあります。

ロンドンとモスクワのあいだにある十余冊。さて、どれが誰(なんの本)でしょうか。会場では本も手にとってご覧いただけます。 

 

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「プログラム習得のコツ」

「日本経済新聞」夕刊の「プロムナード」欄に「プログラム習得のコツ」を寄稿しました。連載第4回目です。

コツといっても、自分の場合、どのように学んだかを書いてみた次第です。

私が見るところ、最重要の要素は動機です。

プログラムでなにかつくりたい、と感じているかどうかがポイントだと思います。

というのは、中高生、専門学校生にプログラミングを教えてみて分かったことがあります。プログラムを学びたいと思っているものの、なにかをつくりたいとは思っていない人が少なからずいるのです。

もちろん好奇心からやってみたいという場合もありますし、一概に悪いわけではありませんが、プログラムでなにかつくりたいという動機がないと、勉強も続きづらいし、習得もしづらいようです。

そこで、講義などでは、ウソでも仮でもいいから、「これをつくろう!」という気持ちをロールプレイするようにしているのでした。

てなことは、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)や『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)などの本でも書いてみたところであります。

 

 

「人工知能という言葉は結局何を意味しているのか?」

「人工知能(AI:Artificial Intelligence)」という言葉は、技術の実情にたいして、いささか人の想像力をかきたてすぎるところがある。

もともとの意図はともかくとして、現在ブームのようになっている人工知能の大半がやっていることをなるべく直接表現するとしたら、「パターン抽出機械」といったところだろうか。

これは別に人工知能の研究や応用をおとしめるものではない。ただ、レトリックとして「人工知能」という名称は誤解を招きやすい擬人法表現だと思う。

コンピュータ用語には、「記憶(memory)」や「学習(learning)」など、同様の擬人法が使われている。例えば「記憶」は「記録」といえば済むところだけれど、「記憶」というとなんだか人間の脳を連想させもするわけである。

「人工知能」といえば、なにやら人間の知能を模して、どうかしたらそれを超えたなにかをつくれるかのような想像も働くところ。ただし、実際には「知能」とはなにかということが、そもそも分かっているとはいいがたいのが現状である。

人工知能と言うためには、よく分かっていないものを人工的にこしらえるとはどういうことか、ということが本当は問題にもなるのだけれど、昨今はパターン抽出による成果が目に見える形で挙がりつつあることもあって、そうした問いはどこかへ忘れられたままになっているようだ。

一周まわって、コンピュータには何ができるのか、何ができないのかをどのように理解しているかが問われる状況とも言えそう。