おしらせ

最近のおしらせ

■1.話す

三中信宏×山本貴光×吉川浩満「分ける、つなぐ、で考える——分類と系統樹から見える世界」(ゲンロンカフェ、2017/09/01)

 新著『思考の体系』(春秋社)を刊行された三中信宏さん、吉川浩満くんと鼎談いたします。

 

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)読書会準備メモ

 酒井泰斗さんと高橋未玲さんが主催する同読書会第2回(2017/07/17開催予定)で第2章前半の報告をします。その準備のためにつけている読書メモを公開中。

 

★東京工芸大学で「ゲーム学I」と「シリアスゲーム論」を担当

 7月24日で最終回となります。私の担当は今年で最終回とします。

 

★よよこーで「ゲームデザイン」講座を担当

 月に二度、代々木高等学院のフリースクールでゲームデザインの講座を担当しています。

 

★東京ネットウエイブ別科で「クリエイター入門」を担当

 月に一度、東京ネットウエイブの別科(高校課程)で講義を担当しています。

 (専門課程の非常勤講師は去年で辞めて、現在は講義を持っておりません)

 

■2.書く

池澤夏樹=個人編集「日本文学全集」第28巻『近現代作家集III』(河出書房新社、2017/07/12刊行)

 第27回配本となる同全集の月報に寄稿しました。池澤春菜さんによる「世界の形と言葉の灯台」と、拙文「宇宙全部入り――玄関から銀河帝国の滅亡まで」が掲載されています。

 

『本の雑誌』2017年8月号「知の巨人に挑む」(本の雑誌社、2017/07/10刊行)

 エッセイ「知の巨人、なれないまでも肩に乗ろう」と「わくわく知の巨人チャート!」を寄稿しました。 

 

■3.連載

「人生がときめく知の技法――賢人エピクテトスに学ぶ人生哲学」(webちくま)

 吉川浩満くんと月2回の連載中です。

 

「人文的、あまりに人文的」(「ゲンロンβ」)

 東浩紀さん編集のメールマガジン「ゲンロンβ」で、これも吉川浩満くんと対談形式で本を紹介する連載を担当しています。隔月掲載。

 

■4.つくる

モブキャストとプロ契約中

 クリエイター育成や新規ゲーム企画などに携わっています。

 

思考の体系学: 分類と系統から見たダイアグラム論

思考の体系学: 分類と系統から見たダイアグラム論

 
ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

 
近現代作家集 III(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集28)

近現代作家集 III(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集28

 
本の雑誌410号2017年8月号

本の雑誌410号2017年8月号

 
語録 要録 (中公クラシックス)

語録 要録 (中公クラシックス)

 
ゲンロンβ14: 視覚と誤配

ゲンロンβ14: 視覚と誤配

  • 作者: 東浩紀,井上明人,小松理虔,大山顕,渡邉大輔,亀山郁夫,岡田暁生,井手口彰典,山本貴光,吉川浩満
  • 出版社/メーカー: ゲンロン
  • 発売日: 2017/05/27
  • メディア: Kindle版
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文字入力はつらいよ

WORDに関する不具合について、将来(同じ目に遭ったとき)の自分のためにメモを残す。

 

Office 365のWORDで文書作成中、日本語入力の挙動がおかしくなった。

使っている仮名漢字変換ソフトはATOK2016。

 

生じる現象は、次のようなもの。

例えば、「前ゲーム的目標を達成する努力」と入力する。

このとき、キー入力はこうなる。("_"はスペース)

 

zenge-muteki_mokuhyouwo_tasseisuru_doryoku

 

何も問題が生じていないときは、このように入力して変換すれば、

 

前ゲーム的目標を達成する努力

 

と表示される。

 

ところが、時々こんなふうになる現象が生じる。

 

zえんゲーム……

 

という具合に、文字列の最初の文字がおかしくなる。

また、文字列の最後に意図しない改行が入ることもある。

 

はじめは、私のタイプミスだろうと思っていた。

(↑プログラマとして身についた、まず自分を疑う姿勢)

 

あまりに頻発するので、「おやおや今日は随分ミスするなあ」と思いつつ、念のため、WORDではないエディターで入力を続けたところ、タイプミスは生じない。というか、ミスも含めて、自分が入力した通りに文字が入力される。

 

現象だけ見ると、私が意図しないタイミングでEnterキーの入力が生じているようだ。しかもそれは、入力初めと終わりで生じることが多い。

 

おやおや。これは、WORDかATOKか両者の組み合わせでなにかが起きているのかもしれないな。

 

そう考えて、調べた結果、原因は不明のままだが、Microsoft Communityで次のようなやりとりを拝見した。

 


対処法だけ書けば、ファイルの保存形式をデフォルトのdocxではなく、docにしてみること。

 

試してみたら、上記の現象はなくなった。

結果オーライといえばオーライなのだけれど、原因が分からないのは気持ちが悪い。

 

ちなみにWORDは、これとは別に、作業中に画面に小さなウィンドウが開いて、文字入力のフォーカスを勝手に移動されてしまい、結果として入力した文字が、WORDファイルの中ではなく、画面上部の小さな入力窓に表示されるという現象もときどき生じている。

これはあちこちで報告されている現象のようだ。

これもアップデートなどでは解消されず、いまでも時々生じる。ひょっとしたら、別のアプリケーションとの関係かもしれない。例えば、別のアプリケーションがバックグラウンドでなんらかの作業を行う際に、そのタイミングでこの現象が起きるなど。とはいえ、これは推測もいいところなので、実際には何が起きているのか不明である。

対処としては、面倒だが、Alt+tabなどでフォーカスを移動しなおすと一応直る。

 

とまあ、こんな具合にちょっとした邪魔でも、文章を書いているときの意識の状態が邪魔されて、うまく行かないものである。少々いらだたしくもあるけれど、文句を言っても始まらないので、時間を決めて対処法を探し、その範囲内でなんとかなる場合はなんとかする。そうでない場合は、問題が生じているWORDの使用を諦めて、他のエディターなどで作業をする。

 

WORDには随分お世話になっているし、初期のヴァージョンに比べたら使えるソフトになってきたけれど、思えばWORDの不具合と戦う人生だった。

いまさらながら、自分にとって理想の文書作成ソフトを空想してみようかしらね。

はてさて。

 

『本の雑誌』2017年8月号「知の巨人に挑む!」

『本の雑誌』2017年08月号(通巻410号)「特集=知の巨人に挑む!」(本の雑誌社)に寄稿しました。

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(いつもはほがらかな感じの表紙も、今回ばかりは「いいから本を読め」と、眉間にしわのよった感じで迫ってきます)

 

特集に関連する目次は次のとおり。

・インタビュー「松岡正剛をつくり上げた重量級の本たち」

・山本貴光「知の巨人、なれないまでも肩に乗ろう」

・山本貴光「わくわく知の巨人チャート!」

・坂本忠雄「小林秀雄の否定文から賛嘆文へ」

・坪内祐三「山口昌男先生のこと」

・下中弘「博物学と百科事典 荒俣宏の龍脈」

・「おじさん二人組、東大に行く!」

 

例によって(?)、わたくしなどが紛れ込んでいていいのだろうかというラインナップに震えます。

 

『本の雑誌』2度目の登場となる今回は、エッセイとチャートを寄稿しました。

 

 

エッセイ「知の巨人、なれないまでも肩に乗ろう」は、チャートの解説も兼ねて、「知の巨人」についてあれこれ述べております。

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また、「わくわく知の巨人チャート!」は、タイトルからお察しいただければ幸甚ですが、ちょっとお遊び気分で、「スタート」地点から質問に「YES/NO」で答えてゆくと、あなたの知の巨人タイプがわかるというチャートをこしらえてみたものです。

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このチャートをつくるにあたっては、ジョルジュ・ペレックの『給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法』(桑田光平、水声社)の巻頭に置かれたチャートを念頭に置きながら、できたらちょっと笑ってもらえるといいなあと思いました。

ふざけたチャートであることに変わりはないのですけれど、作成の際には、

・知の巨人と言いうる人物のリストアップ(3桁の人をリストアップ)

・そこから12名を選出

・彼らの仕事や略歴をもとに質問カードを作成(100枚ほど作成)

・そのカードを大きな紙に、ああでもないこうでもないと並べる

・紙面のサイズを念頭に、泣く泣く質問を取捨選択

・デジタルで下書きを作成

・編集の高野夏奈さんとやりとりしながら調整

という過程を経て完成したものでありました。

(聞かれてもいないメイキングを一方的に公開)

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(カードを並べてチャート作成中の図)

 

特にスタートから最初の4問くらいは、振り落とすために作られておりますので、細心の注意を払って挑んでいただけたら幸いです。

 

エッセイでも触れた「巨人の肩に乗る」という件については、以前編集した『サイエンス・ブック・トラベル』(河出書房新社)のエッセイでも少々書いたことがございました。

 

本の雑誌410号2017年8月号

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サイエンス・ブック・トラベル: 世界を見晴らす100冊

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On the Shoulders of Giants: A Shandean Postscript : The Post-Italianate Edition

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巨人の肩に乗って―現代科学の気鋭、偉大なる先人を語る

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イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #09

読書会での報告準備として、イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)の第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」を読んだメモを公開しています。

 

■メモランダム9.第2章第2節:言葉の問題

9-1.「遊び」と「ゲーム」

第2章の第2節「言葉の問題(The Language Issue)」に進もう。

この節は3つの段落から成っている。

順に読んでみる。まずは第1段落から。

 はじめに注意しておくべき問題がある。遊びplay)とゲームgame)は、密接な関係を持つものであると同時に、互いに異なるものでもある。このことは、おそらく容易に受け入れられるものだろう。「遊び」は、たいていの場合、縛りのない自由な活動を指す。それに対して「ゲーム」はルールにもとづいた活動を指す。問題は、この区別がまさに当の使用言語に依存しているという点にある。フランス語の「jeu」、スペイン語の「juego」、ドイツ語の「Spiel」などは、いずれも遊びとゲームの両方を意味する。そのおかげで、多くの論者は遊びとゲームを区別しないまま議論している。

(邦訳41ページ/原書p. 28。ただし下線部は原文では傍点)

 

ゲームの定義の検討に進む前に、もう一つ注意すべき点がある。

「遊び(play)」と「ゲーム(game)」という具合に、英語(日本語)で区別される二つの言葉は、言語によっては必ずしも同じように区別されていない。

そこで、論者がどの言語でゲームや遊びを論じているかによって、ゲームと遊びは明確に区別されていない場合がある、というわけである。

 

例によって原文も自分で読んでおこう。

(このメモを始めるにあたって述べたことだが、松永伸司さんによる訳文は、適切であり、読みやすく整えられている。ここでは、英語の原文がどのような語彙をどのような順に並べているか、という文体を自分でも読むことで、なにか気付くことがあれば、というつもりでこのように読んでいる次第)

The first thing to note is that it may be easy to accept that there is a difference as well as a close relation between play and game. Play is mostly taken to be a free-form activity, whereas game is a rule-based activity. The problem is that this distinction is very dependent on the language used, and much confused by the fact that in French, Spanish, or German, neither jeux, juego, or Spiel has such a distinction.

 

まず次のことに注意しておきたい。つまり、「遊びplay)」と「ゲームgame)」の間には密接な関係と同じく違いがあるということは受け入れやすいだろう。「遊び」はたいていの場合、自由な形の活動のことだ。他方で、「ゲーム」はルールに基づいた活動を指す。そこで問題は、両者の区別が〔論者の〕使う言語にまさに依存しており、また、フランス語、スペイン語、ドイツ語では、jeuxjuegoSpielという語が、そうした区別をしていないためにたいへんな混乱をもたらす点にある。

 

なお、原文は改行がなく、この節全体が一つの段落から成っている。

 

9-2.英語の場合、デンマーク語の場合

邦訳の第2段落は次のように続く。

 

 英語にも若干の混乱のもとがある。「play」は名詞としても動詞(「you play a game」のように)としても使われるが、「game」は、ほとんどの場合、名詞として使われるからだ。結果として、英語では、ふつうゲームはあそびの部分集合と見なされる。一方、スカンジナビアの諸言語では、「leg」(遊び)と「spil」(ゲームをもっとはっきり区別する。また、それぞれに対応する動詞もあるので、「遊びを遊ぶ」(「lege en leg」)とか「ゲームをゲームる」(「spille et spil」)と言うことができる。それゆえ、デンマーク語でゲームについて論じる場合、ゲームが遊びの部分集合であるということは自明ではない。それに対して、ドイツ語でSpielについて論じる場合は、そもそもゲームと遊びを区別すべきかどうかというところからして自明ではない。このことは、たとえばヴィトゲンシュタインやカイヨワのような、遊びとゲームをそもそも明確に区別しない言語を使う論者の英語訳にはっきりとあらわれている。

(邦訳41-42ページ/原書p. 29)

 

ご覧のように、言語の比較考察が続く。英語では、playとgameは区別されるものの、それぞれの語は使われ方が異なっており、ゲームが遊びの一部であると見なされる、とユールは述べている。彼は品詞の区別にも注意を払っている。

他方で、デンマーク語では、legとspilを明確に区別しているという。

 

語学学習サイトのduolingoで、まさにこの二つの語(の動詞形)についての質問が提示され、次のように回答が寄せられている。

Q. What's the difference between 'leger' and 'spiller?'

A. Leger is generally an unorganized, unstructured, spontaneous game (such as kids might play in the yard) while spiller is the opposite: structured, planned, with rules (such as a board game, a video game, etc).

The same goes for the equivalent nouns en leg and et spil which both translate to a game. Notice that these are used in strict pairs to describe doing the activity:

Vi leger en leg, but
Vi spiller et spil, both of which mean we play a game.

 (https://www.duolingo.com/comment/4334609から)

 

いま読んでいる第2段落は、原語ではこう書かれている。

In English, this is also a bit muddled since “play” is both a noun and a verb (you play a game), whereas “game” is mostly a noun. In English, it is common to see games as subset of play. Scandinavian languages have a stronger distinction with leg = play and spil = game with verbs for both – you can play play(“lege en leg”) and game game (“spille et spil”), so to speak. When writing about games in Danish, it is therefore not self-evident that games are a subset of play, whereas while writing about Spiel in German, it is not obvious that one should distinguish between games and play from the outset. This manifests itself with the English translations of writers such as Ludwig Wittgenstein and Roger Caillois who write in languages with no clear play/game distinctions.

 

英語でも、両者はいくらかごっちゃになっている。というのも「遊び」は名詞でもあり動詞でもある(you play a game)。他方で、「ゲーム」はたいていの場合名詞だ。英語では、よくゲームを遊びの部分集合と見なす。スカンディナヴィアの諸言語では、leg(遊び)とspil(ゲーム)をより明確に区別しており、共に動詞がある。例えば、「遊びを遊ぶ(lege en leg)」「ゲームをゲームする(spille et spil)」と言うことができる。そういうわけで、デンマーク語でゲームについて書く場合、ゲームが遊びの部分集合である、ということは必ずしも自明とは言えない。他方で、ドイツ語でSpielについて書く場合、はなからゲームと遊びを区別すべきであるということは明確でない。こうしたことは、ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインやロジェ・カイヨワが書いたものを英語に訳す際にあらわになる。というのも、彼らが使う言語〔ドイツ語、フランス語〕では、遊びとゲームの区別ははっきりしていないからだ。

 

そういえば、ユールは第2章の冒頭でもウィトゲンシュタインに触れていた。(こちらをご覧あれ

 

また、日本語の場合はどうなのか、という点については「ゲーム」と「遊び」という具合に、gameのほうをカナで音写して日本語に取り込んでいる。また、playも「プレイ」と音写することもあれば「遊び」と訳される場合がある。

日本語の「ゲーム」という語については、先頃「ゲームと人間――魔法円から人は何を持ち帰るのか」(『atプラス』第32号、太田出版、2017/05)というエッセイで少しばかり論じておいたので、興味のある向きはご覧いただければ幸いである(関連する記事はこちら)。


9-3.ルールに基づくゲーム

第3段落は次のとおり。

 もちろん、英語で論じる場合も、「game」という言葉自体が重要なわけではない。たとえば、「大きな獲物を狙う」(big game hunting)と言う場合の「game」は、〔われわれが関心を抱いている意味でのゲームとは〕異なる事柄だとふつう考えられるだろう。そこで、次のことをはっきりさせておきたい。この章の焦点は、ルールにもとづくゲーム(rule-based game)という意味でのゲームにある。

(邦訳41-42ページ/原書p. 29)

 

冒頭の「もちろん~重要なわけではない」という文は、少々意味をとりづらく感じる。これはすぐ後で原文を確認することにする。

第2文は、gameという語について、本書が対象とするカードゲームやボードゲームやスポーツやヴィデオゲームという場合の「ゲーム」とは別の意味について触れている。gameという英語も多義だが、本章では「ルールに基づくゲーム」という意味でこの語を使うという次第。

 

原文はどうなっているか。

At the same time, even within the English language, our focus is not on the letter sequence g-a-m-e, since we probably consider big game hunting to be a slightly different thing. To clarify, the focus here is on the set of games that we can describe as rule-based games.

 

同時に、英語の場合でも、私たちとしてはg-a-m-eという綴り〔で表現されるもの全体〕に注目しているわけではない。というのも、私たちとしては、「大きな獲物を狩る」(big game hunting)〔という意味でのgameについては、ここで考えたいこととは〕少し別のことであるとみなすだろう。はっきりさせておくなら、ここで焦点を当てたいのは、ルールに基づくゲームとして記述できる一群のゲームなのである。

 

――というわけで、このように読んでみれば、邦訳の「英語で論じる場合も、「game」という言葉自体が重要なわけではない」という訳文も腑に落ちる。

 

9-4.『ルールズ・オブ・プレイ』の場合

以上が第2節である。

ここで参考のために、ユールも参照しているケイティ・サレンとエリック・ジマーマンの『ルールズ・オブ・プレイ――ゲームデザインの基礎』(拙訳、ソフトバンク クリエイティブ)〔Katie Salen and Eric Zimmerman, Rules of Play: Game Design Fundamentals (MIT Press, 2004)〕を見てみよう。

f:id:yakumoizuru:20170712014215j:plain

(翻訳に使った原書。ページを分解して持ち歩いたため、ページはバラバラ)

 

というのも、同書の第7章と第8章は、「ゲームを定義する」「ディジタルゲームを定義する」と題して、ユールと同様の考察を行っているからである。

サレンとジーママンは、同書第7章「ゲームを定義する」の冒頭近くで「遊びとゲーム」という節を置いている。そこでは「遊び(play)」と「ゲーム(game)」という二つの言葉が比較されている。議論はこんな具合。

初めの一歩として、ゲームというものが、それに負けず劣らず複雑な遊びというものと、どう関わっているのかを確認しよう。さてそこで、当たり前過ぎると思うかもしれないが、こんな問いを立ててみる。「遊び」と「ゲーム」という言葉は違うものか。それとも、この二つの言葉は同じものを指しているのか。ちなみに英語では、この二つの言葉ははっきりと区別されている。他方で、デイヴィッド・パーレットが『オックスフォード版ボードゲーム史』で指摘しているように、他の言語でも同様とは限らない。例えば、ドイツ語とフランス語では、「ゲームで遊ぶこと(to play a game)」と表現しようと思えば、「遊び(play)」と「ゲーム(game)」という言葉に対して、根が同じ派生語を使い分けることになる。つまり、フランス語では、”on joue à jeu”だし、ドイツ語なら”man spielt ein Spiel”となる)。というわけで、遊びやゲームという言葉にはさまざまな定義の仕方があるけれど、ゲームと遊びという言葉を、互いに関係してはいるものの、別の観念〔アイディア〕としてそれぞれに異なる意味を与えて区別している英語には強みがあるというわけだ。

(『ルールズ・オブ・プレイ』邦訳、上巻、142ページ/原書p. 72。ただし〔〕内はルビ)

 

一旦ここで区切ろう。

彼らは、パーレットの議論を援用して、英語、フランス語、ドイツ語の場合を比較している。英語ではplayとgameは別の語だが、フランス語とドイツ語では同根の語を使い、区別されないという話は、ユールも踏襲している。

ただし、サレンとジマーマンが、game/playの区別について、独仏語に対する英語の優位を確認している点については、先ほど見たようにユールは、英語の場合も若干混乱すると指摘していた。また、デンマーク語ではgame/playに相当する語が、名詞としても動詞としても使えると述べており、この点についてサレンとジマーマンの議論にはないものを付け加えている。

 

続きを見てみよう。

 さて、遊びとゲームには、実に込み入った関係があることが分かっている。遊びは「ゲーム」と比べて、広くもあり狭くもあるけれど、どちらになるかはどんな枠組みで見るかに拠っている。ある見方をとれば、「遊び」のほうが広い用語で、「ゲーム」がその一部として含まれることになる。また別の見方をとれば逆も真なりで、「ゲーム」のほうが広い用語で、「遊び」がその一部として含まれることになる。こうした両者の関係を次のように分けて考えておこう。

 

関係その一 ゲームは遊びの一部である
 それこそ野原で二匹の犬が楽しげ〔プレイフル〕に追いかけっこをしていることから、童謡を歌っていることや、オンラインRPGの集い〔コミュニティ〕まで、人が「遊び」と呼んでいる活動全般について考えてみると、そうした遊びのあり方〔フォーム〕のうち、一部だけが、私たちが「ゲーム」という言葉で考えている事柄であるように思える。例えばドッジボールをするのはゲームで遊ぶことだ。つまりプレイヤーは、明確に形を整えられた一連のルールに従って勝負を競う。しかし他方で、シーソーで遊ぶとか、ジャングルジムでやんちゃをするといった活動は、ゲームとは言えない遊びのあり方だ。思えば、ほとんどの遊びは、まとまりという点で見ると、ゲームよりゆるかったり、そもそもまとまりがなかったりするものだ。とはいえ、中には形が整えられている遊びのあり方もあって、そうした遊びのあり方はゲームであるとみなしてよい場合が多い。こう考えてみると、「ゲーム」は「遊び」の一部〔部分集合〕であることははっきりしている。これは、類型的〔タイポロジカル〕な扱い方〔アプローチ〕であり、遊びとゲームの関係を、両者の実際のあり方〔フォーム〕に沿って定義するものだ。

 

関係その二 遊びはゲームの構成要素である
 今度は別の方向から見ると、ゲームは遊びを含んでいると考えてみることができる。本書はまるごとゲームについて書かれた本だが、そのゲームを構成する要素の一つが遊びというわけだ。遊びという経験は、ゲームを考察したり、理解するための数あるやり方の一つにすぎない。ということは、ゲームという幅広い現象の中で、ゲームの遊びというものは、ゲームの一側面だけを表しているというわけだ。遊びは、ゲームという大きな概念にとって不可欠の要素であるとはいえ、「遊び」はせいぜい「ゲーム」の一部に過ぎない。両者の関係をこんなふうに考えてみるのは、先ほどの類型的な扱い方と比べると、むしろ概念的な扱い方である。このやり方では、遊びとゲームとがゲームデザインの領域に位置づけられている。

 (邦訳143-144ページ/原書pp. 72-73)

 

ご覧のように、サレンとジマーマンは、「ゲーム」と「遊び」を、一方が他方を含むという関係で二通りに整理している。

前者の「ゲームは遊びの一部である(games are a subset of play)」という見方は、ユールが「英語では、ふつうゲームは遊びの部分集合と見なされる」と述べていることに対応している。

後者の「遊びはゲームの構成要素である(play is a component of games)」のほうは、「ゲームにはあらゆる遊びが含まれている」という意味ではないことに注意しよう。”play is a subset of games”ではなく”play is a component of games”と書かれているのはそのためだ。

このことを理解する上では、シリアス・ゲームと呼ばれるゲームを考えるとよい。シリアス・ゲームとは、娯楽のためだけではなく、ゲームで遊ぶことを通じて、知識が増えたり、エクササイズを行えたりといった、娯楽以外のなんらかの効果をもたらすゲームを指す。この場合、シリアス・ゲームには「遊び」だけではない要素が含まれている。

 

こうしたゲームと遊びの関係については、もう少し考えられることがありそうだが、その前に、『ルールズ・オブ・プレイ』の今読んできたくだりについて始末をつけておこう。上記の二つの関係を述べた後で、こう続く。

 遊びとゲームを巡るこうした二つの扱い方は、きっと相反するように見えるだろう。しかし、これは言葉を巧みに操ってみせただけ、という話ではない。ここで大事なことは、「ゲーム」と「遊び」という二つの言葉には、決定的な違いがあるということだ。英語は、おそらく例外的にこの二つの言葉を分けているのだが、これは非常にありがたい区別だ。ゲームをうまく定義するには、いましがた説明した二つの意味で、ゲームと遊びをはっきりと区別せねばならない。

(邦訳144ページ/原書p. 73)

 

彼らは英語がそうであるように「ゲーム」と「遊び」という二つの語をはっきり区別して考えることを重視している。

特に、ユールも指摘していたように、英語のgameが名詞で使われがちであるのに対して(動詞形もある)、playは名詞であり動詞でもある。つまり、人の営みとしてゲームを捉える場合、「play=遊ぶ」という動詞が必要である。この点で、フランス語やドイツ語のようにgame/playが別の語になっていなかったとしても、「遊ぶ」に相当する動詞があることには注意しておこう。モンダイは、遊ぶという営みの対象として名指されるものが、その動詞と同根の語なのか、それとは違う語なのか、という違いだ。

 

9-5.日本語の場合

この点、日本語ではどうか。

a. ゲームで遊ぶ
b. 遊びでゲームする
c. ゲームする
d. 遊ぶ

という具合に表現できる。a、b、cの三つは、ほぼ同じ意味で捉えることができる。ただし、cについてはbとの対比で、遊びではない状況でゲームをすることが考えられるかもしれない。例えば、

e. 仕事でゲームする
f. 勉強でゲームする
g. 研究でゲームする

という具合に、必ずしも「遊び」とは言い切れない状況でゲームをする場合がありうる。cはその点で、「遊び」とは限定されていないといえばされていない。

dは「遊ぶ」であり、これはゲームとは限らない遊びが含まれるだろう。例えば、「友だちと一緒に遊んだ」という場合、ゲームをする場合もあるが、ゲームはせず、一緒に買い物やお茶に行ったり、海や公園に行ったりすることも指す。

 

9-6.ゲームと遊びの関係

また、頭を整理するために言えば、「ゲーム」と「遊び」の二つの言葉について、形式的には次のような関係を考えることができる。

1. ゲームは遊びの一部である
2. 遊びはゲームの一部である
3. ゲームと遊びは一部重なっている
4. ゲームと遊びは等しい
5. ゲームと遊びは等しくない

1と2は、サレンとジマーマンの区別。3、4、5はそれぞれ、図にすれば下のようになる。

f:id:yakumoizuru:20170712014108j:plain

(『ルールズ・オブ・プレイ』上巻とその余白のメモ)

 

仮にゲームには遊びを含むとともにそれ以外の要素が含まれると見なせるなら、3の図にも意味はありそうだ。

 

4は「ゲーム」は「遊び」とぴったり重なっている。言葉としては違うけれど、まったく同じ意味という状態を指している。そのように限定してこの二つの語を使うことはできるものの、それぞれの語の来歴を考えると、同じ語とは言いがたい。あるいは、gameを「遊び」や「遊戯」と訳すのであれば、その場合は「ゲーム=遊び」と見なしているとも考えられる。

 

5は、そもそも「ゲーム」と「遊び」は別のものであり、重なるところはないという見立てである。これは経験的に考えづらい。とはいえ、先ほど考えてみたように、遊びとしてではなくゲームを行うことがあるとすれば、その場合、ゲームは遊びではないとも言える。仮に「ゲームする」という動詞を認めるなら、それを「遊び」として捉えるか、それ以外の例えば「仕事」として捉えるか、というふうに、見立て次第であるということにもなる。

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」
 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

 

■関連文献

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

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ルールズ・オブ・プレイ(上) ゲームデザインの基礎

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Rules of Play: Game Design Fundamentals (MIT Press)

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atプラス32(吉川浩満編集協力)

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  • 作者: 吉川浩満,稲葉振一郎,木島泰三,粥川準二,ベンジャミンクリッツアー,山本貴光,飯島和樹,片岡雅知,柴田英里,井上智洋,平野徳恵,諫早庸一,國分功一郎,朴沙羅,栗原康,岩沢蘭
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イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #08

読書会での報告準備として、イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)の第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」を読んだメモを公開しています。


■メモランダム8.第2章の構成(小休止)

以上で、第2章の最初の節を読み終えた。

ここまでのところ、ユールは、これから行うはずのゲームの定義について、前もっていくつかの確認を行っている。この定義はどんな範囲をカヴァーするのか、定義はどうあるべきか、定義することにはどのような意味があるのか、など。

同節には、見出しはついていないが、これを仮に「2-1.はじめに」と名付けると、第2章は、次のような構成になっている。なお、一部を除いてユール自身は、見出しに番号を振っていない。番号はあくまで、便宜的に私が勝手につけたもの。(はじめに書いておくべきだった……)

 

2-1.はじめに(37-41ページ)

2-2.言葉の問題(41-42ページ)

2-3.先行の定義論(42-50ページ)
(1)はじめに
(2)ルールと結果
(3)目標と争い
(4)自発性
(5)分離と非生産性
(6)効率のよくない手段
(7)フィクション
(8)社会的な集団形成
(9)ゲームとプレイヤー――目標についてもう少し考える
(10)分離と非生産性――取り決め可能な帰結

 

以上は、第2章の準備パートのようなもので、先行研究におけるゲームの定義を検討している。今回の読書会で、私の担当はここまで。以下は、今井晋さんのご担当。以下では、先行研究の検討を踏まえてユール自身のゲームの定義「古典的ゲームモデル」を提示している。その上で、「古典的ゲームモデル」で収まらないヴィデオゲームが考察されるという段取り。

 

2-4.新しい定義――ゲームの6つの特徴(50-59ページ)
(1)はじめに
(2)ルール
(3)可変かつ数量化可能な結果
(4)結果に対する価値設定
(5)プレイヤーの努力
(6)結果に対するプレイヤーのこだわり
(7)取り決め可能な帰結

2-5.ゲームの境界について(59-61ページ)

2-6.物としてのゲームと活動としてのゲーム(62-63ページ)

2-7.ゲームの事例(63-66ページ)
(1)はじめに
(2)チェッカー
(3)サッカー
(4)『Battlefield 1942』
(5)境界事例――『SimCity』

2-8.媒体横断的なゲーム(66-72ページ)
(1)はじめに
(2)実装と翻案
(3)ゲームの実装――領域間の対応づけ

2-9.古典的ゲームモデルの限界(73-75ページ)

 

さて、読書会は7月17日(月)なので、それまでに少なくとも担当箇所を同様に精読し終えなければならない。さらには配布用のレジュメをこしらえるので2日前くらいには読解作業を終えておきたい。

ということは、もう少しペースを上げねばなるまいて。 

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」
 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

 

■関連文献

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

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イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #07

前回のメモで読んだ第2章題5-6段落について、読解の続きです。

■メモランダム7.第2章第5-6段落の補足(ホフスタッター)

 7-1.ホフスタッターの議論

ユールは、ゲームを定義することの意味を説くために、ダグラス・ホフスタッターの本から「生産的集合」という概念を借り、文字「A」の定義の例を紹介していた。

ユールが引用しているホフスタッターの議論を見ておこう。


そこで言及されていた「生産的集合(productive set)」とは、ダグラス・ホフスタッターの『メタマジック・ゲーム――科学と芸術のジグソーパズル』(竹内郁雄+斉藤康己+片桐恭弘訳、白揚社、1990)〔Douglas R. Hofstadter, Metamagical Themas: An Interlocked Collection of Literary, Scientific and Artistic Studies, Basic Books, 1985〕に現れる言葉だ。

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実際には、こんなふうに書かれている。

メタ数学の用語でいえば、任意の概念上の(あるいは意味的な)カテゴリーは生産的な集合であると表現できる。これは前節の記述に対応する厳密な数学的概念で、どんな有限の手続きをもってきてもその要素をすべてもれなく数え上げることはできないが、つぎつぎにより複雑な手続きをとっていくらでもよく近似することができるような集合を指す。このような集合の存在とその性質は、一九三一年のゲーデルの不完全性定理の結果として、はじめて世に知られた。


In metamathematical terms, this amounts to positing that any conceptual (or semantic) category is a productive set, a precise notion whose characterization is a formal counterpart to the description in the previous paragraphs namely, a set whose elements cannot be totally enumerated by any effective procedure without overstepping the bounds of that set, but which can be approximated more and more fully by a sequence of increasingly complex effective procedures. The existence and properties of such sets first became known as a result of this famous result...

(邦訳249ページ/原書pp. 261-262。ただし下線は山本による)


「生産的集合(productive set)」とはメタ数学の概念である。

上記邦訳のうち、「どんな有限の手続きをもってきてもその要素をすべてもれなく数え上げることはできないが」という部分は少し気になるので、原文に即して読んでみよう。原文は上にも掲げたようにこう書いてある。

a set whose elements cannot be totally enumerated by any effective procedure without overstepping the bounds of that set

 

どんな実行可能な〔効果的な〕手続きを用いたとしても、その集合の境界を越えることなくして、要素を完全には数え上げられないような集合


邦訳では、意図してか、参照している原書の版がちがうのか、原文にある” without overstepping the bounds of that set”に相当する文がないように見える(私が見ている邦訳は1990年9月25日発行の第1版第2刷)。

また、”effective procedure”を邦訳では「有限の手続き」としている。辞書的に直訳すれば「効果的な手続き」「有効な手続き」「実効的な手続き」となるだろうか。現在の計算機科学では、「実行可能手続き」と訳されたりもする。もっとも、手続きが有限でなければ、私たち人間にしろ、性能に限りのあるコンピュータにしろ、実行できないわけだから、結果的には「有限の手続き」といってもよいのだろう。

 

この点の理解のために、計算機科学の教科書から、”effective procedure”の説明を引用してみる。

 (略)計算可能性の概念は、単に数値計算に限定されるものではなく、一般に、「機械的に実行できる手続き(procedure)とはチューリング機械の動作として記述できるものである」とみなされるようになっている。とくに、ある問題を解くための手続きが、いかなる具体例に対しても必ずいつかは停止して結果を出すことが保証されている場合、その手続きは実行可能(効果的)手続き(effective procedure)あるいはアルゴリズム(algorithm)とよばれる。


 たとえば、与えられた実係数の1元1次方程式ax + b = 0を解く問題を考えたとき、これを解く手続きは明らかに存在し、どのような実係数a、bが具体例として与えられても(すなわち、任意の方程式に対して)、必ず解を出して停止することができる。したがって、この手続きはアルゴリズムである。

(富田悦次+横森貴『オートマトン・言語理論 第2版』(北森出版、2013)、178ページ。ただし下線は山本による)

 

つまり、コンピュータを使って数学の問題を解くような場合、有限の手続き(例えば、数式に対する操作)によって答えを出せる場合、そのような手続きを「実行可能手続き」とか「効果的手続き」というわけである。

これは英語の"effective procedure"を訳したもの。裏返していえば、有限の手続きでは答えを出せない問題もある、ということが含意されている。要するに、数学のある問題について、有限の手続きで解けますか、解けませんか、という区別をする話だ。「アルゴリズム」という語と言い換えられると説明されている。


――という補足を踏まえて、先ほどのホフスタッターの引用を今度は拙訳で見直そう。

どんな実行可能な〔効果的な〕手続きを用いたとしても、その集合の境界を越えることなくして、要素を完全には数え上げられないような集合

 

実行可能な手続きでは、要素を完全に数え上げられないような集合があって、こういうものを「生産的集合(productive set)」と呼ぶわけである。実際には、自然数に関する話。後に触れるように、これを文字「A」について用いるのはホフスタッターも述べているように比喩である。


7-2.ホフスタッターはなぜ生産的集合について論じているのか

ところで、ホフスタッターは、なぜ生産的集合について論じているのか。ここでユールが例に挙げていた文字「A」が関わってくる。


先ほどの引用は、ホフスタッターの『メタマジック・ゲーム』の第13章「メタフォント、メタ数学、そしてメタ思考」と題された文章が出所だった。その章では、ドナルド・クヌースによる「メタ・フォントの概念(The Concept of a Meta-Font)」が検討されている。


クヌース先生といえば、コンピュータ科学の世界では知らぬ者のいない大先生。彼は数式を含む文章をコンピュータで美しく印刷できるようにするTEXというシステムの作者としても知られている。

(余談――私は1990年に大学に入学した。私が通ったキャンパスでは、レポートはすべてLaTeXというソフト(というか言語)を用いて作成することが義務づけられていたと思う。たしかにこの言語を使ってレポートを書くと、数式や脚注などもきれいにつくれるのでよいのだが、当時はなぜこんな面倒なことをするのだろうかと疑問に感じたりもした。クヌース先生ご自身は、自分の必要からこのプログラムを書いたということを後で知り、改めてTeXのありがたさを感じ直したということがあった。とは、ただの思い出話)

 

メタ・フォント(Meta-Font)とは、これもまたクヌース先生が考えたことの一つ。せっかくだから「メタ・フォントの概念」の冒頭を読んでみよう(こういうことをしているから、先に進まないのだった……)。

 アリストテレスの哲学作品に『メタフィジクス』〔形而上学〕と称されるものがある。なぜそう呼ばれるかといえば、その本は、彼の著作を並べる際の慣習で、『フィジクス』〔自然学〕の後ろに置かれるためである。20世紀になって、人びとは、このギリシア語の接頭辞がもともとどんな意味だったかを忘れてしまっている。「メタ(meta-)」とは、この語で修飾されるものならなんであれ、そこに超越論的な性質を付け加えるものだ。〔例えば、〕メタサイコロジー(精神はそれを含んでいる身体とどう関係しているかを研究する分野)〔メタ心理学〕、メタマセマティクス(数学の根拠の研究)〔メタ数学、超数学〕、メタリングイスティクス(言語がどのように文化と関わるかの研究)〔メタ言語学〕などがある。メタ数学では、メタ定理(定理についての定理)を証明する。また、コンピュータ科学ではメタ言語(言語を記述する言語)を使うことが多い。「メタ」が頭につく新しい造語は、現代の私たちが物事を外側から、より抽象的な水準から見ようとする傾向を反映したもので、私たちはそれをいっそう深い理解であると感じる。


 こうした意味で「メタ・フォント」とは、単にフォントを描くだけでなく、フォント・ファミリーをどのように記述するかという図式のことである。そうした記述では、文字を描く手続きについて、およそ正確なルールを与えるものだ。また、そのルールは、理想的に言えば、変化するパラメータとして表現されるだろう。そこで、単一の記述は実際には、たくさんの異なった〔文字の〕描画についてその条件を指定する。そういうわけで、メタ・フォントのルールは、パラメータの設定によって、様々な異なる個々のフォントを定義するだろう。

(Knuth, “Concept of a Meta-Font,” in Visible Language, XVI 1, Winter 1982, p.3)

 

――という具合で、メタ・フォントとは、一群のパラメータによってさまざまなフォントを描くためのルールの集まりといってよいだろう。


ホフスタッターは、このクヌース先生の論文の主張を「コンピュータの出現によってあらゆる文字の形を統一的に扱うことが可能になりつつある」と拡張した上で、その要点を次のようにまとめている。

(1)ありとあらゆる「A」という文字の形の下に唯一の究極的な抽象形「A」が存在し、それを有限個のパラメータをもったアルゴリズムとして記述できる――有限個のノブの付いたソフトウェア機械とでも呼べるようなものの存在。(ノブというかわりに自由度、またはパラメータといってもよい。)

 

(2)そして考えうるすべての個々の「A」は、この機械のノブをある値に合わせることによって得られるということ。

 (邦訳248ページ/原書p.261)

 

これをさらに、有限個のパラメータで、あらゆる「A」という文字を描くためのアルゴリズム(実現可能な手続き)をつくれる、と要約してもよいだろう。

 

「パラメータ」という語が分かりづらいかもしれない。これは数学やコンピュータの分野では、内容が変化する変数の一種。例えば、車というオブジェクトを、位置、重さ、速度といった変化する可能性のある要素で表現するような場合、これらの位置、重さ、速度などを、この車のパラメータなどと称したりする。

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(図:多様な「A」の形。『メタマジック・ゲーム』から)

 

つまり、クヌース先生は、フォントというものを、有限のパラメータ(内容が変化する変数)の集合体として表現できるんじゃないか、と提案しているわけである。もし、そうできれば、フォントを構成する各種パラメータの内容(数値)を変えることで、いろんなフォントを自動的に作れちゃうでしょう、という話だ。


ホフスタッターは、クヌース先生自身はそこまで言っていないが、と断った上で、この議論を、ありとあらゆる「A」という文字を生成するアルゴリズム、という具合に言い換えている。そして、そうしたことは不可能であるというのがホフスタッターの見立てだ。

「文字A」というようなカテゴリーによって定められる「空間」全体を埋めつくすことは無限の創造力を必要とする業であって、有限の存在(機械的なメカニズムであれ生きものであれ)には、けっしてすべての可能な「A」、そして「A」だけを生成することはできない(略)と私は思っているからである。


 人生は有限だから誰も無限の創造をすることはできない、というあたりまえのことをいっているのではない。たとえば「文字A」というカテゴリーの(無限に多くの)具体例のすべてを理論上は生成できるような、「秘密の処方箋」を誰ももつことはできないという自明ではない主張をしているのである。実際、そんな処方箋は存在しないと。別の言い方をすれば、無限の時間が与えられてあなたが考えることのできるすべての「A」を書ける――すなわち、あなたの処方箋の能力をフルに引きだすことができる――としても、「A」の張る空間のほとんどの部分はカバーできないということである。

 (邦訳249ページ/原書p. 261)

 

「秘密の処方箋」の原語は”secret recipe”で、「秘密の妙案」という感じで読んでもよいだろう。

それはともかく、こうした前提があって、ユールが引用した「生産的集合」の議論が出てきたわけである。上記に続く箇所は、先ほども引用したが、今度は拙訳で書いてみよう。

 以上のことをメタ数学の用語でいえば、実質的に、どんな概念(あるいは意味)のカテゴリーも生産的集合であると仮定することに等しい。生産的集合とは、厳密な概念であり、その性質は、前段落の記述に形式的に対応している。つまり、どんな実行可能な〔効果的な〕手続きを用いたとしても、その集合の境界を越えることなくして、要素を完全には数え上げられないような集合である。ただし、実行可能な手続きをだんだんと複雑にしてゆくことで、いっそうよく近似できる。

 

そして、こうした生産的集合というものは、ゲーデルの不完全定理の結果として出てきたものだ、という次第。ここでは省略するが、ホフスタッターは、これに続くくだりで、ゲーデルの定理について、譬えを用いて解説している。


それに続いて述べられている次の文章を読んでおくと、ユールがなぜ「生産的集合」という概念を援用しようと考えたのかが、理解しやすくなるかもしれない。

 与えられたシステムでは証明できない真理を追加することによって、ちょっとばかり強力なシステムを作ることができる。しかしこのシステムも、もとのシステム同様、ゲーデルの魔力から逃れることはできない。諺で有名なオランダの少年が、漏れた部分を指でおさえるたびに新しい漏れ口が出現するような堤防を想像してみよう。彼に無限の指があったとしても、堤防の壁には彼の指でおさえられていない部分がいくらでも見つかる、というしだい。少なくとも一つの証明できない真理を含むシステムのことを不完全であるといい、どうやってもこの不完全さから逃れられないとき、本質的に不完全という。このまったくあきれるほど頑固な性質をもった集合のことを生産的と呼ぶのである(くわしくはロジャースの本参照)。


 「意味的なカテゴリーは生産的な集合である」という私の主張は、もちろん数学的に証明できる事実ではなく、一つの比喩である。私以前にもこの比喩を使った人たちがいた。とくに論理学者のエミール・ポストやジョン・マイヒルがそうである。そして、私自身も以前、このことに関して書いたことがある(第23章参照)。

(邦訳251ページ/原書p.263)


という具合で、ホフスタッターは、生産的集合というメタ数学の概念を、一種の比喩として使っているわけである。そう、比喩であることに注意しよう。


彼がここで参照せよと述べている文献は、次のとおり。

★Hartley Rogers, Jr., Theory of Recursive Functions and Effective Computability (MIT Press, 1967)

 

★Emil L. Post, “Absolutely Unsolvable Problems and Relatively Undecidable Propositions: Account of an Anticipation,” in The Undecidable, edited by Martin Davis, Raven, 1965, pp. 338-443

 

★John Myhill, “Some Philosophical Implications on Mathematical Logic: Three Classes of Ideas,” Review of Metaphysics 6, no. 2 (Desember, 1952), pp. 165-198

 

特にホフスタッターによる以下の主張は、ユールの議論に近い形をしているように思う。

どんなに多くの変種を(たとえば)ヘルベティカ〔という書体〕に追加していったとしても、人はいつでもまったく新しい思いもよらなかった変種を思いつくことができる――たとえば丸型ヘルベティカ、飾り付き丸型ヘルベティカ、フレア付きヘルベティカというふうに。

 

 どんなにたくさんのノブ――あるいはさらに新しいノブのワンセット――をヘルベティカ機械に追加したとしても、必ずいくつかの可能性を抜かしてしまうのだ。私たちは、有限のパラメータ化では予測しえない新しいヘルベティカの変種を永遠に発明することができる。(略)既存の字体からヒントを得て、ヘルベティカを新しい方法で変形したものをいくらでも想像することができる。

 (邦訳259ページ/原書pp. 271-272。ただし〔〕内は山本による補足)

 

ここではヘルベティカという字体とその変種について述べられている。これをゲームに置き換えて読めば、ユールが言わんとしていたことに近い。また、文中の「ノブ」は、ゲームに共通の性質と読み替えればよい。

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」
 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

■関連文献

Donald E. Knuth, The Concept of a Meta-Font (1982)〔pdf〕

 

J. C. E. Dekker, “Productive Stes,” in Transactions of the American Mathematical Society Vol. 78, No. 1 (Jan., 1955), pp. 129-149〔pdf〕

Robert I. Soare, “Recursively Enumerable Sets and Degrees,” Bulletin of the American Mathematical Society, Volume 84, Number 6, November 1978〔pdf〕
 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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ゲーデル 不完全性定理 (岩波文庫)

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今回の議論に直接関わるわけではないが、近年出た類書から。 

コンピュータは数学者になれるのか?

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イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会のためのメモランダム #06

イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳、ニューゲームズオーダー)の第2章「ビデオゲームと古典的ゲームモデル」の第5-6段落を読みます。

 

■メモランダム6.第2章第5-6段落:ゲームを定義する意味

6-1.古典的ゲームモデルと新しいゲーム

まずは第5段落から。

 大雑把に見れば、伝統的なカードゲームやボードゲームやスポーツに含まれるゲームのほとんどすべては、ここで言う古典的ゲームモデルのうちにすんなり入る。古典的ゲームモデルに挑むような、新たなゲームのかたちが出てきたのは、ようやく20世紀の残り3分の1になってからであるように思われる。

(邦訳40-41ページ/原書p. 28)

 

コンピュータ以前のゲーム、デジタルゲームとの対比でアナログゲームや非電源ゲームと呼ばれたりもするゲームは、ユールのいう「古典的ゲームモデル」に分類されるという。

ただし、目下のところ、古典的ゲームモデルの詳細は不明である(第1章、邦訳15ページに概要は述べられている)。そこで、ここでは「そうなのか」と、ユールの見立てを受け取っておくに留めて、後に検討することにしよう。

 

6-2."any complication of"の含意

例によって原文も自分で読んでみよう。

In the big perspective, practically every single game found in any compilation of traditional card games, board games, or sports falls squarely within the classic game model I describe here. It appears that it is only during the last third of the twentieth century that new game forms have challenged the classic model.

 

大きく見れば、なにかしら昔ながらのカードゲームやボードゲームやスポーツを寄せ集めてみて、そこに含まれる個々のゲームをとってみれば、実際には私がここで説明する古典的ゲームモデルにきっちり分類される。新たなゲームの形が、古典的モデルに疑念を提示したのは、20世紀の終わりの三分の一になってからのようだ。

 (原書p.28。ただし下線は山本による)

 

ここでユールが”any compilation of ...”(……を寄せ集めたもの)という具合に、やや込み入った言い方をしている点に注目しておこう。松永さんによる訳では、「伝統的なカードゲームやボードゲームやスポーツに含まれるゲームのほとんどすべては」という具合に、読みやすく調整されている。このくだりは原文で読むと、「おや?」と気になるところ。

というのも、何事もなければ、つまり他に意図がなければ、”every game found in traditional card games, board games, or sports”(昔ながらのカードゲームやボードゲームやスポーツに見つけられるいずれのゲームでも)と言えばよかりそうだから。そこにわざわざ”any compilation of...”と述べているのは、これいかに。

compilationとは、辞書では「編集」「編集物」「寄せ集め」と出ている。動詞形のcompileは「(書物・地図などを)編集する」「(一定の目的のもとに資料などを)集める」という意味の言葉。「編集」もまた、さまざまな要素を「集めて編む(編み集める)」営みであることを思い出しておこう。要するにコンパイル/コンピレーションとは、何かを集めることを指している。
(やや余談になるが、今回の読書会にはゲーム開発者たちも少なからずいるので触れると、プログラマーなら、自分がなんらかのプログラム言語で書いたコードを、機械語に変換する処理とそのためのプログラム――コンパイラという――を思い浮かべるだろう。コンパイラは、プログラマーがつくったコードを機械語に変換するだけでなく、関連する他のファイルと編集する働きも持っている)

 

話を戻せば、ユールは、ここでこう言いたいのだろうと思う。私なりの言葉で言い換えてみる。

カードゲームやボードゲームやスポーツといった昔ながらのいろいろなゲームを集めてみて、そこに入っている個々のゲームを見てみれば、ほとんどのゲームは〔ユールのいう〕「古典的ゲームモデル」で説明できるよ。

 

なぜ一見些末なこの言葉(”any compilation of”)に立ち止まってみたかというと、ユールがこの直後に持ち出す「生産的集合」という概念に関わるからだった。

なにかを数え上げるとする。ここでの議論に合わせていえば、ゲームに分類されるものを数え上げる。このとき、普通私たち人間は、自分の記憶(経験の痕跡)によって、「ああ、あんなゲームもあったな」という具合に思い出せるものを数え上げてゆく。もちろんネットや文献を使って「こんなのもあるんだね」と数え上げてもよい。という具合に数え上げて集めたものを「集合」という。

先ほど見た”any compilation of...”、つまり「集める(compile)」という動詞やその名詞形である「編集/寄せ集め(compilation)」とは、集合をつくる操作のことでもあるだろう。というわけで、しばしここに目を留めた次第。

6-3.ゲームの定義は必要か

段落を変えて、次のように続く。

ゲームのルールをいちいち言うことがそのゲームを退屈に思わせるのと同じように、ゲームの定義は〔ゲームに対する理解を〕窮屈にさせるものに見えるかもしれない。しかし、実際はその逆だ。ゲームを定義することは、ダグラス・ホフスタッター(Hofstadter 1985)が「生産的集合」を呼んだものを作ることにほかならない。生産的集合の例を挙げよう。たとえば、文字「A」を表すすべての形状からなる集合があるとする。この集合の性質を挙げていくことは、それだけで、どうやれば当の集合を拡張できるかを理解する手がかりになる。文字「A」の可能なあり方をすべて挙げたとすると、文字「A」の新しい字体のデザインを思いつくことがより簡単になる。これと同じように、ゲームを定義することは、これまでのゲームが挑戦してこなかったことに挑戦する新しい種類の「ゲーム」を作る方向を示してくれるだろう。ルールは、それをはっきりと認識したほうが、より破りやすくなるものだ。

(邦訳41ページ/原書p.28)

 

ゲームを定義するのは窮屈なことに感じられるかもしれない。人によっては、「そんなに堅苦しく定義なんてしなくても、だいたいのところゲームってこんなものだよ」と思っておけばいいじゃないか、と考えるかもしれない。もう少し強く言えば、定義など役に立たないのではないか、という見方もあるかもしれない。

しかし、例えば何かを研究する場合、研究対象を限定するためにも定義は必要になる場合が多い。制作の場合には、必ずしも定義は要らないように感じる人がいても無理はない。定義があろうがなかろうが、ゲームができればよい、とも考えられるからだ。実際のところは不明だが、私の経験では、ゲームとはどのようなものであるかという定義を明確にした上でゲームを制作している人のほうが、むしろ少数であるように感じる(ただし、壁際に追い詰めて、「キミのゲームの定義を教えてくれ」と迫れば、なんらかの定義を聞き出すことはできるかもしれない)。

しかし、これもまた私の狭い経験範囲でのことだけれども、「少なくとも今回のプロジェクトでは、ゲームとはこういうものであると仮定する」と、定義を施した上で制作に取り組んだほうがよいとも思う。なぜなら、例えば100人のチームでゲームをつくるような場合、ゲームの定義は100人100様だからだ(ことは3人でも同様)。

ついでながら、開発現場では、しばしば何がゲームであるかということを「ゲーム性」という言葉で表していることもある。「ゲームが備えている性質」ということだ。しかし、多くの場合、「ゲーム性とは何か」ということ自体は検討されず、「ゲーム性が薄い」とか「ゲーム性が違う」というように、なにかゲーム性なるものが自明の性質であるかのように議論されていることもある。使えばなんとなく話が通じる便利さがある一方で、コンニャク問答があちこちで生じる危険も大きいわけである。

6-4.生産的集合

それはさておき、ユールはここで、ゲームを定義することの意味を主張している。そこで援用されているのは、ダグラス・ホフスタッター(Douglas Hofstadter、1945- )が本で言及している「生産的集合」という概念である。念のために言えば、「生産的集合(productive set)」は、ホフスタッターが考案した概念ではない。

ホフスタッター本人がどのような議論をしているかは、後に見ることにして、先に今読んでいるユールの文章を見ておこう。

彼は、「生産的集合」という概念そのものを説明する代わりに、生産的集合の例を提示している。その部分をもう一度引用すると、こんな説明だった。

たとえば、文字「A」を表すすべての形状からなる集合があるとする。この集合の性質を挙げていくことは、それだけで、どうやれば当の集合を拡張できるかを理解する手がかりになる。文字「A」の可能なあり方をすべて挙げたとすると、文字「A」の新しい字体のデザインを思いつくことがより簡単になる。

(邦訳41ページ/原書p.28)

 

このくだりは、ホフスタッターの文章の文脈をもう少し踏まえないと、理解しづらいかもしれないが、ここではやはりユールの文章だけを頼りに読んでみよう。

上の引用部分で言われていることを、分解して並べてみる。

1) 文字「A」を表すすべての形状からなる集合があるとする。
2) この集合の性質を挙げていく。
3) 2によって、どうやれば1の集合を拡張できるかを理解する手がかりになる。
4) 文字「A」の可能なあり方をすべて挙げたとすると、文字「A」の新しい字体のデザインを思いつくことがより簡単になる。

それぞれについて、もう少し詳しく検討してみよう。

1) Aの集合

まず、いろいろな形をした「A」という文字がある。これは、コンピュータの多様なフォントで「A」を表示するような場面を考えてみてもよい。また、いろいろな人が手書きで「A」と書いた場合、すべて形は異なっていると思われるが、そうした異なる形をしたあらゆる「A」を集めた集合があると考えてみよう。

2) Aの集合に共通する性質

そうしたいろいろな「A」という文字の集合について、その文字の形について性質を挙げてみる。それらの「A」という文字(とみなされる文字)に「共通する性質」と読んでおくと、理解しやすくなるかもしれない。言い換えれば、これは「A」とは何か、という定義のことでもあるだろう。

3) Aの集合を拡張する

文字「A」の集合に共通する性質がわかれば、文字「A」の集合を拡張する手がかりが得られる。文字「A」の集合を拡張するとはどういうことか。この説明だけでは必ずしも明確ではないが、例えば、まだ文字「A」の集合に含まれていないような形の「A」を、この集合に加えて、文字「A」の集合をより大きくするということかもしれない。

4) Aの集合に含まれていない新しいA

「文字「A」の可能なあり方をすべて挙げたとすると、文字「A」の新しい字体のデザインを思いつくことがより簡単になる」というのも、このままでは少し分かりづらい。というのも、「文字「A」の可能なあり方をすべて挙げる」ということは、新しい字体を思いつくもなにも、そのようにして挙げられた「A」のなかにすべての可能性があるわけだから、とも読める。あるいは、「文字「A」の可能なあり方をすべて挙げる」ことによって、まだ挙げられていない「A」の形を見つけやすくなるということかもしれない。ただし、その場合、そもそも「文字「A」の可能なあり方をすべて挙げた」ことになっていない。

 

不明な部分もあるけれど、ユールの文章の続きを読もう。このように述べていた。

これと同じように、ゲームを定義することは、これまでのゲームが挑戦してこなかったことに挑戦する新しい種類の「ゲーム」を作る方向を示してくれるだろう。ルールは、それをはっきりと認識したほうが、より破りやすくなるものだ。

(邦訳41ページ/原書p.28)

 

文字「A」の話と同じように、ゲームを定義すれば、いまだその定義に含まれていない、新しいゲームを発見できる手がかりが得られると述べている。

この段落で特に重要なことは、最後の1文に示されているように思う。つまり、「ルールは、それをはっきりと認識したほうが、より破りやすくなる」という指摘である。

ゲームを明確に定義しないと、その制限を拡張したり、その外にあるものから、新たななにかを見つけたりしづらい。定義をすれば、それを意識して破ったり変形したりもしやすい、というわけである。

具体的にいえば、例えば、仮に「ゲームでは、必ず勝敗が決まる」という条件があったとする。もしこのように明確に定義されている場合、「ふむ、それならもし勝敗が決まらないものをつくってみたら、どうなるかな」と発想してみることもできる。

だからゲームの定義をすることには意味がある、というのがユールの主張だった。まとめれば、ゲームを定義することの意味をここでは述べていたのだった。

 

果たしてホフスタッターの本から「生産的集合」という概念を借りてくることで、このくだりの説得力が増しているかどうか、とは素朴な疑問である。というのも、おそらくホフスタッターのもとの文とその文脈を読んでいない読者にとっては、このくだりを読むだけでは「生産的集合」がなんであるか、その含意が不明のままに留まるだろうから。「生産的集合」という言葉を出さず、文字「A」の話だけを援用するというやり方もあったかもしれない。

 

それはさておき、ここでもユールの原文を自分でも見ておこう。

Like the fact that mentioning the rules of a game can make it sound dull, the idea of a definition may sound limiting but it is really the opposite. In fact, to define games is to create what Douglas Hofstadter (1985) has termed a productive set. An example of a productive set is the set of all shapes that represent the letter A, where the mere description of the properties of the set help show how the set can be expanded. Having described all possible A’s makes it much easier to come up with new typographical designs for the letter A. Having a definition of games also points to how we can create new kinds of “games” that try new things that games have not tried before. It is easier to break the rules once you are aware of them.

 

ゲームのルールを論じるといえば、面白くないように感じるかもしれないのと同じように、定義という発想は、物事を制限するように感じるかもしれない。だが、実際にはその反対である。事実、ゲームを定義することは、ダグラス・ホフスタッター(1985)が「生産的集合」と呼んでいるものをつくることなのだ。生産的集合の例に、Aという文字を表すあらゆる形の集合がある。その集合の性質を〔捉えて〕記述すれば、その集合をどのように広げることができるかを示す助けとなる。可能なすべてのA〔という形〕について〔その性質を〕記述すれば、Aという文字について〔まだ文字「A」の集合には含まれていない〕新しい字体(タイポグラフィ)のデザインを見つけ出すのもはるかに容易になる。〔同じようにして〕ゲームの定義も、どうしたらこれまでゲームが試してこなかった新しいことを試すような、新しい種類の「ゲーム」をつくれるかを示すものだ。ルールを知ってさえいれば、それを破るのは簡単である。

 

次に、ホフスタッターの本で「生産的集合」という語がどのように使われているかを確認しよう。長くなってきたので、いったんここで区切る。

 

■関連リンク

⇒日曜社会学 > 「イェスパー・ユール『ハーフリアル』読書会」

 http://socio-logic.jp/events/201706_Half-Real/

■関連文献

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

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Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional Worlds (MIT Press) (English Edition)

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