山本東次郎近藤ようこ『中・高校生のための狂言入門』平凡社ライブラリー530、平凡社、2005/02、amazon.co.jp)#0363*


漫画家・近藤ようこ(こんどう・ようこ, 1957- )氏が聴き手となって大蔵流狂言方山本東次郎(やまもと・とうじろう, 1937- )氏に狂言の講釈を受ける対話篇。

・第一章 狂言とは何か
・第二章 狂言を演じる
・第三章 狂言を見る
・第四章 面・装束・小道具
・第五章 三番三を舞う
・第六章 狂言と能


という章立てで、狂言の門外漢を門前まで連れてきてくれる講義。


東次郎氏の言葉から、いくつか気にとまったものを拾っておきたい。


1:類型的表現

狂言は類型的だし、突っ込みも浅いと言うかたがいらっしゃいます。けれども、類型的であることには意味があるし、浅いのには浅くしておかなければならない理由があるからなんです。もっと突っ込んでしまうとそれは、あるところへ踏み出してしまうということになる。踏み出さずに、あえてそこで止めておくことに意義がある、そうお考えいただくといいかもしれません。類型化することは観客に安心を与えることでもあるんです。いまは、映画でも芝居でも奇想天外なことをいろいろ考えて、観客をアッと言わせることがいいことだとされていますが、狂言はその正反対の方向を向いているんです。狂言では、観客を驚かせたり不安にすることは悪いこととされてきました。


ですから、類型化してそのなかで少しずつずらしてみせる、ある範囲のなかで演じる。そのためにはその外側の範囲を決めないといけないわけで、それが類型化であり、様式化であるわけです。

(同書、29ページ)


類型が公式のように用いられると創造性は殺される。ここで東次郎氏が述べている類型はそうではなく、創造のための条件(縛り)として機能するものとして捉えられている。


2:狂言の二つの特徴

狂言には二つの特徴があります。一つは、難解ではなく易しいということ、そしてもう一つは、事件に踏み込んでいかないということです。ヤジロベエという玩具がありますでしょう。私はあれが狂言の姿だと思うのです。フラフラしているけれども、どちらにも落ちない。

(同書、32ページ)


たしかに狂言の筋立てには簡潔なものが多い。もし狂言が「難解」に見えるとしたら、それは作品自体の難解さというよりは、作品が伝統のなかで維持してきたものと、現代の生活や文化のスタイルとのあいだの乖離によるのだろう。極端に走らずに作品することの難しさは、なにかしらの作品に手を染めたことがあると腑に落ちるところ。


3:個人と様式

もし私が私個人の個人的な、自由気ままな動きをしたとすると、それは私の身の上の話であってほかのかたとは関係のないものになってしまいます。それが、こういう様式化された型のなかでやることで、私個人を離れた、およそ人間だったら、というものを表現できるんじゃないかと思っています。また、それが狂言の表現術ということでもあります。

(同書、56-57ページ)


それが理想的な無限遠点であるとしても、普遍的な表現をめざすということ。実際のところこれにはさまざまな留保がつくのだけれど、創り手側がこの自覚をもっているか、まったく無自覚なのかによって出来上がってくる作品の性格がおおきくちがってくることは言うまでもない(チャップリンは、サイレント映画にこだわっていたことが思い出される)。


4:人間の愚かしさを表現する

狂言というのは人間の愚かしさを表す心理劇だと、私は定義づけています。

(同書、82ページ)