辺見庸坂本龍一『反定義——新たな想像力へ』朝日文庫へ3-1、朝日新聞社、2005/05、amazon.co.jp)#0364


2001年9月11日の出来事をうけて、辺見庸(へんみ・よう, 1944- )氏と坂本龍一(さかもと・りゅういち, 1952- )氏が行った対談をまとめた書物。親本は2002年3月に朝日新聞社から刊行されたもの。


本書を構成する対談は、二重の怒りに貫かれている。ひとつはカブールをはじめとする各地でいまもなお進行中の愚劣に対する怒り。もうひとつは、911が起こるまでうすうすそうであるだろうと理解はしていたもののはっきりとつきつけられることなくやり過ごしていたそうした状況への己の無自覚への怒り。


アメリカ合衆国によるアフガニスタン報復攻撃で改めて明示されたことのひとつは、軍事的暴力の圧倒的な非対称性だった。同時に、情報統制によるイメージ・コントロールによる情報の非対称もこの出来事をつうじて俎上ののぼせられた問題のひとつだった。

アメリカで起きた屁のようにつまらないことが、まるで自国のことのように日本でも報道される。けれども、エチオピアで起きている深刻なことや、一人あたりの国民総生産がたった百三十ドルのシエラレオネで起きている大事なことは、まず日本では報じられない。この国では、どこのレストランが美味いか、どこのホテルが快適か、どこで買うとブランド商品が安いか、何を食えば健康にいいのか、逮捕された殺人容疑者の性格がいかに凶悪か、タレントの誰と誰がいい仲になっているか……といった情報の洪水のなかでぼくらは生きています。伝えられるべきことは、さほど伝えられなくてもいいことがらにもみ消されています。アフガンもそうやってもみ消されてきたのです。9・11の前には、アフガンは実体としてもほとんど《無化》されていたといっていい。

(同書、36ページ、辺見氏の発言)


書名の「反定義」には、ブッシュ大統領小泉首相による正義や文明や野蛮についてのでたらめな定義に反して定義をぶつけるという意味がこめられている。


この対談では、いうなれば、そうした横暴に抗して有効な「反定義」を提出できなかった知識人にも批判の矛先が向けられている。

だから今回、どの哲学も、どの思想もアフガンへの空爆を止められなかったということは、おおげさにいえばプラトン以来の哲学の死であるとぼくは思ったんです。

(同書、131ページ、坂本氏の発言)



哲学が現実の改善や愚劣の歯止めに有効な力をもちえずにきた、という指摘は正しいと思う。とはいえ(これを言ってもなんの足しにもなりはしないのだが)、それを言えば哲学はこれまで人類史上に起きてきたすべての戦争と愚劣を止めることはできなかったことを思い出さなければならない。では哲学がまったくの無力かといえばそうではないと思うけれど、そうした愚劣を遂行する立場にある人間に届いていないことはたしかだ。「誰に届くか?」ということはもちろん、この対談をふくむすべての政治批判・政治談議にも言えることであり、二人が911を契機としてこの場で論じていることの一つでもある。


本書を読めば、人はそれぞれにさまざまな異論を持つにちがいない。そのように異論を持つところからでもはじめなければ、という焦燥感がこの対話全体をつうじて感じられる。二人の創造者によるややもすると空転にも見えかねない怒りにいま触れなおす意義は小さくない。


解説を寄せている中沢新一(なかざわ・しんいち, 1950- )氏は、批判される「ポストモダン」思想に関与した立場から、その結構を簡潔に論じている。


その他、911をめぐる思想家の発言としては、中山元編訳『発言——米同時多発テロと23人の思想家たち』朝日出版社、2002/01、amazon.co.jp)が、事件直後の知識人たちの反応と発言をまとめていて有益な一冊。