冒頭拝見(その1)



本を読んでいると、一読してなにを言っているのか、言おうとしているのか、にわかには分からない文章に出会うことがある。


例えば、一定以上の専門知識を持ち合わせている人に向けて書かれた書物などは、その最たるものだ。とはいえ、その場合は、読み手であるこちらに知識がないために、読んでもなにを言っているのか、言おうとしているのかが分からないわけで、このような場合は、同書で前提されていることを学んで理解してから臨めば、読めるようになる(こともある)。


他方で、どうやらそういう前提知識を要求しているわけではないにもかかわらず、一読した限りではなんだか分からない文章というものもある。もっとも、それとても、人によりけりではあるのだけれど。私にとって、吉田健一の書く文章は、ときによく分からない。


私は、どちらかというと吉田健一の書くものが好きなほうだ。なぜこんなことを言うかといえば、読み手の筆者に対する好悪の念は、読むことに影響を及ぼすと思うからである。つまり、「この筆者はけしからんから、どこかに穴がないか、変なことを書いていやしまいか」と穿鑿しながら読むのと、「この筆者がなにを言わんとしているのか、ぜひとも知りたい」と熱望して読むのとでは、書かれていることの見え方もだいぶ違ってくる。


これはまったくの私事であるけれど、目下、『夏目漱石『文学論』を読む』(仮)という本を書いている最中でもあり、どうやら吉田健一の『文学概論』は、漱石を仮想敵(の一人)と目していることもあって、なんとかこの『文学概論』に書かれていることを、分かりたいと思っているのだった。


先日、久し振りに本を開いて驚いた。巻頭の二つの文章が、すでに分からない。この本は、こんなふうに始まる。

文学が言葉、及び言葉の使い方であるというのは、掛け値なしにその通りの事実であって、従ってそう言ってしまえばそれですむことであるが、同時にこういう素朴で基本的なことは、そこまで筋道が幾つも辿って行けて、それが辿り着く所は同じでも、その途中のことで我々はその事実そのものにどれだけの内容があるかに気が付く。つまり、言い方が色々ある時、それを並べることはこういう場合には繰り返しでなくて、或る一つのものの言葉になり得る限りの輪廓をそこに描き出すことであり、それは常に輪廓に止りながら、そういう言い方のどの一つを取っても、既にそこに何ものかが描き出されている。

吉田健一『文学概論』、講談社文芸文庫、2008/原書、垂水書房、1960)


これは、「I 言葉」と題された『文学概論』冒頭のなかでも冒頭の文章である。


他のページには、以前読んだ折の書き込みがあるのだが、ここはまっさらなままだ。どうやら、以前これを読んだ私は、この箇所になんら引っかかりを覚えなかったらしい。よく分からないところには、しばしば「?」を書き入れて、ページの端を折ったりするのだが、ここは余白にも文章にもなにも書き込みがない。しかし、いま読んでみるとよく分からないところがある。1文目はまだ分かるように感じるのだが、2文目になるとさっぱりだ。


なにが分からないのかを分かりたいので、少し丁寧に読んでみたい。ここに引用した文章は、先ほども申したとおり、二つの文からなっている。息の長い文である。ただし、意味の上からすると、いくつかの文に区切ることができる。そこで、長い文に構成した作家の意図には反するけれど、文を区切って書き直してみたい。まず1文目から。

文学が言葉、及び言葉の使い方であるというのは、掛け値なしにその通りの事実である。従ってそう言ってしまえばそれですむことである。だが、同時にこういう素朴で基本的なことは、そこまで筋道が幾つも辿って行けるものだ。それが辿り着く所は同じでも、その途中のことで我々はその事実そのものにどれだけの内容があるかに気が付く。


ご覧のように四つに区切ってみた。その上で、さらに各文を眺めてみよう。

(1) 文学が言葉、及び言葉の使い方であるというのは、掛け値なしにその通りの事実である。
(2) 従ってそう言ってしまえばそれですむことである。


ここは一見すると分かりやすい。さらに書き直してしまえば、こうなるだろうか。

・「文学」は「言葉」である。また、「文学」は「言葉の使い方」である。
・これは事実である。
・そう言えば、それで話は尽きる。


同意するかどうかは別として、ここで言われていることは理解できるように思う。では、次にどう続くか。

(3) だが、同時にこういう素朴で基本的なことは、そこまで筋道が幾つも辿って行けるものだ。


以上に述べたような「素朴で基本的なこと」、つまり、「文学は言葉および言葉の使い方であるという事実」については、こうした事実に至るまで、いくつもの筋道がある、と述べている。


ここでは、道の譬えが用いられている。出発点はどこか分からないが、どこか或る場所から、「文学は言葉および言葉の使い方であるという事実」という到着点まで移動するという状況だ。そして、この到着点に行く道は一つだけではなくて、いろいろあると言っている。


ここは読み手の推測だが、出発点は「文学とはなにか?」という問いだと考えてみたい。つまり、文学というものがよく分からないので、問うてみれば、「文学とはなにか?」という疑問になる。この疑問を念頭に置いて、その答えを求めて彷徨う。するとやがて、どんな道を辿るかはいろいろあるものの、「文学とは言葉のことだ」とか「文学とは言葉の使い方のことだ」という「素朴で基本的」な事実、求めていた問いの答えに到着する。こういう状況が思い描かれているのではないか、と思う。


いま読んでいる第1文には、もう一つの句が含まれていた。

(4) それが辿り着く所は同じでも、その途中のことで我々はその事実そのものにどれだけの内容があるかに気が付く。


「それ」とは、直前に言われていた「幾つもの筋道」であろう。仮に先ほど述べた推測が妥当だとすれば、この文の前半、読点までの部分は次のように読み替えてよい。

(4) 「文学とはなにか?」という問いの答えを求めて、幾つもありうる筋道のどれかを辿れば、どこを辿ったとしても同じ場所へ到着する。つまり、「文学とは言葉、あるいは文学とは言葉の使い方である」という素朴で基本的な事実に到着する。


その上で、読点以下も、読み手なりの理解に従って書き替えるとこうなる。

そのような同じ到着点に至る筋道の途中で、私たちは「文学とは言葉、あるいは言葉の使い方である」という事実そのものに、どれだけの内容があるかということに気づく。


ここは少し含意が取りづらいようにも感じる。というのも、到着点に至る道の途中では、まだ到着点のことは分からないのではないか、とも思うからだ。とはいえ、おそらくこの書きぶりからすると、到着点に待っているはずの「文学とは言葉、あるいは言葉の使い方である」という事実は、出発する時点か道の途中で、すでに見えているという話なのだろう。言ってしまえば、「世上よく言われている事実」として、そもそも「文学とはなんだろうか?」という問いをもって、あれこれ探索するときに、すでに耳目に入っているようなことだ、ということなのだと思う。


こう解釈してよいとすれば、探究の道の途中で、すでに余人が言っている「文学とは言葉、あるいは言葉の使い方である」という到着点(答え)に、いったいどれだけの内容があるものだろうかと気づく、というのがこの文である。この「どれだけの内容があるか」という言い方は、どちらかというと否定的に聞こえる。反語的に「内容などないのではないか」ということに気づくと言っているのではないか、と。ただ、ここまでのところでは断定は避けたい。筆者の姿勢はまだはっきりとは見えていない。


というわけで第1文を素朴に読んでみた。原文をもう一度掲げよう。

文学が言葉、及び言葉の使い方であるというのは、掛け値なしにその通りの事実であって、従ってそう言ってしまえばそれですむことであるが、同時にこういう素朴で基本的なことは、そこまで筋道が幾つも辿って行けて、それが辿り着く所は同じでも、その途中のことで我々はその事実そのものにどれだけの内容があるかに気が付く。

吉田健一『文学概論』冒頭第1文、オリジナル版)


今回の読み方にそって、書き替えてみるとこんな具合になるだろうか。

「文学とは言葉とその使い方である」という主張は、掛け値なしにその通りの事実である。だから、そう言ってしまえば話はそれで尽きる。だが同時に、「文学とはなにか?」という問いを念頭に探究の旅に出発したとしても、「文学とは言葉とその使い方である」といった素朴で基本的な答えへと至る道は一つではない。また、そうした複数の道が、いずれも最終的には同じ場所、同じ答えに辿り着くのだとしても、その道すがら、私たちはその事実そのものに、いったいどれだけの内容があるだろうか、ということに気が付く。

吉田健一『文学概論』冒頭第1文、カヴァー版テイク1)


「お前の話は回りくどい」と(大滝秀治の声で)お叱りを受けそうだし、書き換えを施したカヴァー版のほうがいいとは思わない。後者は丁寧で誤解の余地を減らすことはできるだろうけれど、言いたいことに対して、言葉が多すぎるような気もする。意味内容を汲んで、もう少し刈り込むとどうなるか。ここで「カヴァー版」だの「テイク」といってみたのは、音楽家が他の音楽家の曲を演奏することや、録音のヴァージョン違いになぞらえている。

「文学とは言葉とその使い方である」とはまったくの事実である。しかし「文学とはなにか?」という問いから出発して、この答えに至る道筋はいくつもある。そして、どの道を辿ろうが、最後には「文学とは言葉とその使い方である」という素朴で基本的な答えに至るかもしれない。ただ、その道の途中で、そんな答えにはいったいどれだけの内容があるものかということに気づくだろう。

吉田健一『文学概論』冒頭第1文、カヴァー版テイク2)


あまり変わらないし、吉田健一の名調子を壊しただけじゃないか、ですって? いえいえ、こうして読み直したり、書き直したりしながら味わってみると、いろいろなことに気づくのであって、そこに値打ちが……という弁明はともかく、ここまでを読む限りでは、まだ書き手の言おうとすることが見えてこない。なにしろまだ1文を読んだだけなのだから、当然といえば当然である。では、こうした理解の上で、さらに分かりづらいと感じた第2文を読んでみたらどうなるか。気が向いたら続きを書きたい。