“社会課題”を疑似体験--オランダで発展した「シリアス・ゲーム」

シリアスゲームに関する記事。

ここ数年のスマートフォンの普及により、ゲーム産業が以前にも増して活発な動きを見せている。オランダのゲーム調査会社Newzooの2016年版「グローバルゲームマーケットレポート」によると、2016年は996億米ドル(約10.8兆円)の規模で、2019年には1186億ドル(約12.8兆円)になると予測されている。

 その中で、世界18位、約5億2400万米ドル(約569億円)の市場規模をもつ国がある。人口約1700万人、九州並の国面積をもつオランダである。市場規模でみると世界でのプレゼンスは高いとはいえないが、エンタテイメント系ゲームとは一線を画す「シリアス・ゲーム」というジャンルで高い評価を受けている。 

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國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』書評

「日本経済新聞」2017年04月29日号の書評欄に、國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院)の書評を寄稿しました。

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私たちは、行動をともすると「する」「される」と、能動/受動でとらえますが、実際にはそんなにすぱっと割り切れるものではありません。しかし、文法のカテゴリー(分類の仕方)に即して、そんなふうに捉えたりします。

古典ギリシア語を学ぶと、「中動態」という、現代語では耳慣れない文法用語にお目にかかります。これは、能動とも受動とも異なる行動のあり方を指し示す態なのです。

國分さんの新著は、この中動態に着目して、その歴史と意味を探究する希有な試みであります。

目次はこんなふう。 

プロローグ――ある対話

第1章 能動と受動をめぐる諸問題

第2章 中動態という古名

第3章 中動態の意味論

第4章 言語と思考

第5章 意志と選択

第6章 言語の歴史

第7章 中動態、放下、出来事――ハイデッガー、ドゥルーズ

第8章 中動態と自由の哲学――スピノザ

第9章 ビリーたちの物語

あとがき

 書評では、どのような内容の本なのかを900字で伝えるというミッション・インポッシブルに挑戦しております。

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(*第1章の扉への書き込み。場合によってはこんなふうに図を描いて頭を整理しています。)

 

日経新聞書評欄、今回で4度目の登場となりました。

・スティーヴン・ワインバーグ『科学の発見』(文藝春秋)

・ロジャー・クラーク『幽霊とは何か』(国書刊行会)

・エイミー・E・ハーマン『観察力を磨く 名画読解』(早川書房)

・國分功一郎『中動態の世界』(医学書院)

過去の3本は、現在「日経スタイル」で公開されております。(下記「検索結果|NIKKEI STYLE」からご覧いただけます)

 

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

 

ゲーム学I/シリアスゲーム論 講義の予定

先日の講義でもお伝えしましたが、東京工芸大学での講義「ゲーム学I」「シリアスゲーム論」、2017年5月1日(月)は休講です。次回第4回は、その翌週、5月8日(月)の予定であります。

念のため、ここにも記しておく次第です。どうぞよろしくお願いいたします。

ブルーノ・スネル『詩と社会――社会意識の起源に対するギリシャ詩人の影響』

ブルーノ・スネル『詩と社会――社会意識の起源に対するギリシャ詩人の影響』(新井靖一訳、筑摩書房、1982/08)

Bruno Snell, Dichtung und Gesellschaft: Studien zum Einfluß der Dichter auf das soziale Denken und Verhalten im alten Griechenland (Claassen Verlag, 1965)

 

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文芸作品(文学作品)が、人びとにどのような影響を与えたのか、与えたとみなされてきたのか、ということを追跡中。

スネルのこの本は、古代ギリシアにおいて、ホメロスをはじめとする詩人たちの作品が、社会にどのような影響を与えた(可能性がある)のかを検討しています。

もともとは1960年3月から4月にインディアナ大学でスネルが行った講義をもとに、Poetry and Society: The Role of Poetry in Ancient Greece (Indiana University Press, 1961)として刊行されたとのこと。

上に掲げた邦訳は、その後ドイツ語で刊行された版から訳されたもの。ドイツ語版は、講演の再録だけでなく、文献学的な議論など、加筆されたもの、とは著者による「序言」で説明されておりました。

 

目次は以下のとおり。

 

序言

第一章 詩と社会

第二章 ホメロス――ひとつ心と共属意識

第三章 初期アルカイック期の抒情詩――友情・同志・国家意識・諸学派

第四章 後期アルカイック期の抒情詩――詩人の社会的地位と自負心

第五章 悲劇――罪の意識と孤独

第六章 喜劇とヘレニズム文学――市民社会と芸術のための芸術

 

訳者あとがき

索引

 

邦訳副題に見える「社会意識の起源に対するギリシャ詩人の影響」とは、実際どのように見いだせるのか。この点がたいへん気になります。

というのも、素朴に考えてみると、こんな疑問が思い浮かぶからです。

詩人を含む人間集団があるとする。その集団のなかで、例えば本書の課題である「社会意識」のようなものが芽生えたり、共有されるという状態が生じる。

ことの順序としては、その人間集団のなかでそうした発想が生まれたり共有されはじめて、それを見てとった詩人が作品に表現するとも考えられます。

他方では、その人間集団では、まだ共有されていない新しい発想を、詩人が作品で表現して、その作品を通じて人間集団のなかに、その新しい発想が広まる、という順序も考えられます。

この点について、スネルはどう考えていたのか、というのが今回、私のもっぱらの関心であります。

これについて、例えば、こんなふうに書かれています。

ホメロスから悲劇作家にいたる詩人たちは、彼らの時代と社会的階層についての見解を反映しているばかりではなく、また特定のグループの代表者であるばかりではなく、むしろ彼らは、人間たちが並存しているという新しい思想を発展させることにさまざまな仕方で寄与したのである。ある詩人がどの程度慣習的なことを述べているか、もしくはどの程度目新しいことを述べているかを個々の点について決定することは往々にして困難である。まして、社会のほうが詩人に影響を及ぼしているか、それとも詩人のほうが社会に影響を及ぼしているか――これはどうやら、卵がさきか、鶏がさきか、という例の問題に似ていなくもない――を探る哲学上の問題には誰しも掛り合いたくはないであろう。いずれにしても、もしある思想がある詩人の作品に初めて姿を見せ、また、この新しい事柄がその詩人の試作活動の本質的な関心事であるということが明らかとなる場合、その詩人はほかならぬこの思想のために詩を草したのだということが容易に推測しうるのである。こういう問題にたずさわる場合、私にはどうも楽観主義的傾向があり、人によってはさしあたりはこのような態度に賛同しないようなことがあるかもしれない。

 こういったわけで、私のテーマは、本書の表題が告げているよりはもっと限定されたものとなっている。

 (同邦訳書、pp. 6-7)

 

「そりゃそうですよね、先生」と、ちょっと安堵したような、がっかりするような込み入った気分になるわけですが、そもそも古代ギリシアから現在まで、伝存している言葉(資料)自体が限られているのだし、それらの言葉とて、当時人びとが交わしていたかもしれない言葉の一部であるのだから、あまりに多くを求めるのは酷というものでありましょう。

できるのは、そうした限られた資料から、しかし何を言えるか、何を推測できるかということです。実際、スネルがこの本でやって見せているように、ホメロスならホメロスの言葉使いを注意深く読むことで、少なくともホメロスが、現代の私たちにとっては当然のように感じられる精神作用について書き表すのに苦心している様子を見てとることができます。

といっても、古代はやっぱり未開で、現代は進んでるよね、という話ではありません。単に言語やその背景となる文化などによって、うまく表現できることとそうでないことが違っているだけだろうと思います。

というのは、最近刊行された國分功一郎さんの『中動態の世界』(医学書院)で示されているように、古典ギリシア語が備えていた能動態とも受動態とも異なる中動態という動作(動詞)のあり方を、私たちの言語はそのようには備えていない、という一事からも窺えます。

スネルの本を読みながら、ある時代のある言語における言葉の並べ方、使い方を読み解く際に、いかにして現代の発想を時代錯誤的に投影せずに読むか、という課題についても考えさせられました。

いま取り組んでいる『夏目漱石『文学論』論』と『私家版日本文法小史』(いずれも仮題)を書き終えたら、続いて「科学の文体」に関わる本を2冊書く予定でいるのですが、そこではいくつかの時代のいくつかの言語によって書かれた(現代なら)科学(と呼ばれる領域)の文章を解読してみる予定です。そこでもスネルのような読解の態度がおおいにものをいうはずだろうと睨んでおります。

それはさておき、引き続き、文芸・文学が人びとや社会に与えた影響について検討してみたいと思います。これは漱石が『文学論』で検討したことの一つでもありました。

 

詩と社会―社会意識の起源に対するギリシャ詩人の影響 (1982年)

詩と社会―社会意識の起源に対するギリシャ詩人の影響 (1982年)

 

 

「人文的、あまりに人文的」第12回

東浩紀さんが編集長を務めるメールマガジン「ゲンロンβ13」に、吉川浩満くん(id:clnmn)との連載書評対談「人文的、あまりに人文的」第12回を寄稿しました。

毎回、新旧の人文書2冊をとりあげて紹介する連載です。

気づけば開始してから1年が経ちました。

月に一度、吉川くんと喫茶店で話した録音をもとに対話形式で書いています(そう、実際にしゃべってから書いているのでした)。面白くてためになる(そして本を手にとりたくなる)を目指しておりますが、なかなかどうして難しいことでありますね。

 

今回は、映画「未来よ こんにちは」の話から出発して、ルソーとカントという古典的哲学者の仕事に触れています。そのうち、これまで各回で取り上げた本のリストでもこしらえてみようと思います。

 

「ゲンロンβ13」は「批評は再起動する」という特集です。

そういえば、まだ実物を見ていませんが、東浩紀+佐々木敦編『再起動する批評 ゲンロン批評再生塾第一期全記録』(朝日新聞出版)というゲンロンの活動をもとにした本も出たようですね。

私はここ数年、漱石の『文学論』についての本を書きながら、「文学ってなんだろう」ということを考えておりました。もう少し先になるかもしれませんが、これまた自分としてはずっと懸案の「批評ってなんだろう」ということもいつか検討してみたいと思っています。という観点からも、東さんやゲンロンの活動に引き続き注目して参りたいと思います。

このところ、東浩紀『ゲンロン0』(ゲンロン)、國分功一郎『中動態の世界』(医学書院)、千葉雅也『勉強の哲学』(文藝春秋社)と、人文界の俊英たちによる新著が続々と刊行されております。どういう順番がよいか迷いますが、「人文的、あまりに人文的」でも取り上げたいと念じております。

 

再起動する批評 ゲンロン批評再生塾第一期全記録

再起動する批評 ゲンロン批評再生塾第一期全記録

 
ゲンロンβ13: 批評は再起動する

ゲンロンβ13: 批評は再起動する

  • 作者: 東浩紀,亀山郁夫,大山顕,横山宏介,黒瀬陽平,吉田雅史,小松理虔,二上英朗,山本貴光,吉川浩満
  • 発売日: 2017/04/14
  • メディア: Kindle版
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「人生がときめく知の技法」第5回

吉川浩満くん(id:clnmn)との連載「人生がときめく知の技法」(webちくま)の第5回を寄稿しました。

今回は「できないことで悩む必要なし!」と題して、エピクテトスが指摘する「権内/権外」という考え方について検討しています。

自分にコントロールできること/できないことを区別することが、幸せに生きるための第一歩という話、最近刊行された國分功一郎さんの『中動態の世界』(医学書院)にも通じるテーマだと思います。

といった検討は、もう少し先の回でお話しするとして、次回は具体例で考えてみる予定です。