蓮實重彦『映画への不実なる誘い――国籍・演出・歴史』NTT出版、2004/08、amazon.co.jp


2002年秋から2003年初頭にかけて、せんだいメディアテークで行われた3回のレクチャーの書籍化。「第1章 映画における国籍」では、日本の作家についてのフランスでつくられた映画やモーパッサンの『脂肪の塊』がどのように世界各国で翻案・映画化されたかを論じながら映画の無国籍性を語る。「第2章 映画における演出」では「映画とはいかにごくわずかなもので成立しているか」という観点(cf.「映画とは、女と銃である」D.W.グリフィス)から、ヒッチコックが「男と女と階段」でつくった映画『汚名』を中心に映画における階段を分析する。「第3章 映画における歴史」では、ゴダールの『映画史』をめぐって「時間どおりに着けない」(いつも遅刻する)、「ゆっくり待てない」(非常にせっかちで待つことができない)、「他人にものを与えられない」(奪いこそしないものの)――という作家ゴダールが『映画史』のなかで、いかに映画に嫉妬しながらそれらを断片化してみせているかを「女性」に焦点をあてながら論じる。

映画は二〇世紀になって人類が初めて手にすることになった未知の資産なのです。ところが人類はいまだに映画の二〇世紀的な役割と機能を十分に理解するにはいたっていない。

評判の映画が上映されれば多くの人が見にかけつけるという現象は確かにあるかもしれません。しかし、人々は映画についてそれほど多くのことを知ろうともしませんし、それについて深く考えてみようともしていない。大衆的な娯楽として、生活が乱されない程度にほどよくつきあい、それを自分勝手に消費しているにすぎません。だが、このいささか無責任な消費形態を政治的に活用し、議会による民意の集約とは異質の意思形成手段とすることに、二〇世紀の代表的な政治家たちはことのほかたけていました。レーニンしかり、ヒトラーしかり、ルーズヴェルトしかり。彼らほどではないにしても、ムッソリーニもまた遅れをとるまいとして、いまなお使われている撮影所をローマに作り、いまだに続いているヴェネツィア映画祭を組織しました。為政者たちは映画の二〇世紀的な機能と役割にきわめて自覚的でありながら、それを受けとめる側にその意識が希薄だったのです。映画という優れて二〇世紀的な視聴覚的な表象手段に対する自覚の不均衡が、二〇世紀の悲劇を導き出していたといっても過言ではありません。だから、大量に消費しながらもそのことに無自覚でいることの危険に、おそまきながらでも目覚めねばなりません。私たちは、政治家たちが活用した以上の何かを映画に見いださねばなりませんし、それを怠ったまま二一世紀に足を踏み入れてもいけないはずだと思っています。二〇世紀において、文化にとどまらず、政治的にも大きな役割を演じた映画にそれにふさわしい視線を送り、それが存在していることの意味を把握すべきだと思います。

同書、pp.10-11


⇒あなたに映画を愛しているとは言わせない
 http://www.mube.jp/