『10+1』 No.39(INAX出版、2005、amazon.co.jp


特集は「生きられる東京——都市の経験、都市の時間」


内田隆三+遠藤知巳の両氏による対談「生きられる東京——東京の「現在」における生の様態」のほか、「東京カタログ」と題して内田さんが皇居、丸の内、城南五山、野川・国分寺崖線東京競馬場、銀座通り、六本木ヒルズ秋葉原・電気街ほかについて1トピック1ページの文章を寄せている。


特集のほか、今回刮目した記事二本に触れておきたい。


◆1:中谷礼仁「セヴェラルネス:事物連鎖と人間 第7回 クリティカル・パス——桂の案内人」


『近世建築論集』(編集出版組織体アセテート、2004/02)
中谷礼仁氏の連載「セヴェラルネス:事物連鎖と人間」の第7回は「クリティカル・パス——桂の案内人」。あとからやってきたひとつの情報によってそれまで手にしていた証拠の意味がガラリと変わってしまう、というのはよく書かれたミステリの愉悦だが、中谷氏が引いているベイトソンによる数列の例―― 2, 4, 6, 8, 10, 12 の次になにが来る?――はこの機微をとてもよく表現している(数列の次の数字を知りたい方は、『10+1』本号、pp.12-13を参照)。増築のたびにその増築によって意味を変える桂離宮は、まさにそのような建築だ。今回の「セヴェラルネス」(=いくつか性/この概念については下記リンク先の中谷氏による要約を参照)は、それ自体がセヴェラルネスを体現する桂を、名だたる建築家である、ブルーノ・タウト堀口捨己丹下健三磯崎新らがそれぞれに訪れ鑑賞したさいの道行きから読み解いている。この論考、三次元空間内を散策するヴィデオ・ゲームの体裁でソフトウェア化したらいっそう刺激的であると夢想しながら読む。一本にまとまるのが待ち遠しい論考だ。


右の書影は、中谷氏が主宰する編集出版組織体アセテート『近世建築論集』(2004/02、amazon.co.jp)。2005年06月に、第一刷の完売を経て再版された。読むならいまがチャンス(愚生も繙読中なので読了したらまたメモランダムでご紹介します)。


東京文化財研究所 > 第26回文化財の保存に関する国際研究集会「うごく モノ」 > セヴェラルネス(事物の多様性を可能にする転用過程のメカニズム)
 http://www.tobunken.go.jp/sympo02/abstract/abstract35.html
 「セヴェラルネス」についての要約が読めます。


⇒Nakatani's Blography
 http://www.acetate-ed.net/blog/nakatani.php
 中谷氏のウェブログ


⇒Nakatani's Blography > 2005/06/23
 http://www.acetate-ed.net/blog/nakatani.php?itemid=435
 上記原稿「クリティカル・パス——桂の案内人」への言及があるエントリはこちら。
 雑誌原稿への追加参考資料もあります。


編集出版組織体アセテート > 『近世建築論集』
 http://www.acetate-ed.net/bookdata/002/002.html


【追記】2005年07月12日:
・Nakatani's Blography のURLが間違っておりました。謹んで訂正するとともに、リンク先を追記しました。




◆2:「カウンターカルチャーと建築——アーキグラムの一九六〇‐七〇年代」


『アーキグラムの実験建築1961-1974』(ピエ・ブックス、2005/04)
ピーター・クック(Peter Cook)、デニス・クロンプトン(Dennis Crompton)、デヴィッド・グリーン(David Greene)、マイケル・ウェブ(Michael Webb)、磯崎新五十嵐太郎の六名によるシンポジウムカウンターカルチャーと建築——アーキグラムの一九六〇‐七〇年代」は、2005年1月22日から3月27日まで水戸芸術館で開催されたアーキグラムの実験建築 1961-1974」の開催に際して行われたシンポジウムの採録。モデレータが提示する問題に、いろいろな角度から「果たしてそうだろうか?」と疑義を呈しつつただ論駁や破壊をするのではなく創りかえてゆくさまは「これぞ議論だ」と言いたくなるようなたのしさがある。ご紹介したい言葉がたくさんあるのだが、ここではピーター・クックの次の言葉だけ引いておこう。

私には、デザインをしたことがない文化的なコメンテイターほど腹が立つものはありません。というのは、モノをつくるときには整理整頓がつかないようなものが山のようにあるということに、なかなか皆さん気づかないからです。


実存は分類に先立つ。しばしば創り手が優れた批評家にもなるのは、実作の経験上、定規とそれをあてがう対象とのとりちがえをできない体になっているからではないかと思う。一定以上の複雑さを備えた形態の作品では、作品はつねに統御できる要素としえない要素とのせめぎあいのなかで形成されてゆく。この乱気流のなかの秩序/できあがった作品の秩序の背後にある乱気流をどこまで見てとることができるかということが、批評のひとつの要点であると思う。


水戸芸術館 > 「アーキグラムの実験建築 1961-1974」
 http://www.arttowermito.or.jp/archigram/archij.html