中谷礼仁『セヴェラルネス——事物連鎖と人間』鹿島出版会、2005/12、amazon.co.jp

事物は時間を抹消し一気に私たちの眼前に現れる。


この当たり前の事実に、どのように驚くことができるかによって人はさまざまな方向に思考や創造の道を見出してきた。うつろいゆく陽光をとらえようとして何枚ものカンバスを並べるモネ。運動のさなかにある物質を静止した絵画にあらわそうという無理難題に挑む未来派。自作のガラス作品に生じたひびをむしろ愛すると言ったデュシャン。一見運動そのものをとらえていながらそれ自体が運動の痕跡の記録にほかならないフィルム。さまざまな時間論。過ぎ去った事物の痕跡から生じた出来事の前後を秩序だてようとする歴史学や考古学。精神に生じた諸変容をその痕跡から読み解こうとする精神分析。起きてしまった事件の痕跡だけを手がかりに出来事を再構成する探偵小説……。というよりも、そもそも私たちが日常を送る環境はそうした事物の痕跡に満ちており、こういってよければ私たちは無数の痕跡の中に生きている。


中谷礼仁(なかたに・のりひと, 1965- )氏の新著『セヴェラルネス——事物連鎖と人間』鹿島出版会、2005/12、amazon.co.jp)は、建造物や都市とそれをめぐる出来事や思考を素材として、事物と人間のあわいに生じる痕跡を読みほぐそうとする試みである。

ここで扱いはじめようとしているのは、事物(=thing)とよばれる、複数の知覚を通じて存在を感じることのできる何かと私たち自身のことである。両者間をめぐる性格の検討には主に建造物を用いる。それは建造物が事物の総合性を考えるには都合がいいからである。また扱う対象は、古今東西、様々な時代においてのものであり、特に有名なものであるとも限らない。このような枠組みが何かしらの現在的意義を持つのだとしたら、それは事物そのものがいまだ保持している「謎」を解くという希望に求められるだろう。

(p.64)


事物はつねに一気に出現する。だからそこには謎がある。事物が辿ったはずの経緯という謎がある。そしてその痕跡だけが事物とともにある。



デュパンやホームズは義憤や道徳心に駆られてというよりは痕跡の謎に魅入られて事件の解明に乗り出した。彼らは目の前にあるものをよく見ること、それもただ見るのではなく、事物を痕跡として読むことから出来事の真相に迫った。このよく見るということがどれほど困難であるかということを、ポーの「盗まれた手紙」——その行方が問題である手紙が、実ははじめから目の前にあり、デュパンだけがそれをよく見てとった——は示しているように思う。


桂離宮ペリカン島(アルカトラズ)、ウィトルウィウス、ピラネージ、都市、ダイコクノシバ……有名無名を問わないこれらの謎に深く魅了され、その痕跡をシャープに解読してみせる中谷氏を、やはり一人の名探偵になぞらえる誘惑にはあらがいがたい(建築研究者、建築史家はどうしたって建築探偵にならざるを得ないわけだが)。


書名にも掲げられた「セヴェラルネス(severalness)」とは、この探偵が駆使する鍵概念である。セヴェラルネス、つまり、いくつかであること。一つでもなく、無限でもなく、いくつかであること。ひょっとするとこの一見シンプルな概念がいったいどのような効果をもつのか、いぶかしく思われるかもしれない。だが、セヴェラルネスとは連鎖しあう事物がさまざまに連鎖するその仕方をよく見てとるための要のような概念なのである。


たとえば建築物が増築/転用されるとき、この増築/転用には唯一必然的な可能性があるわけではないし、さりとて無限の可能性があるのでもない。増築/転用のもととなる建造物によって要請されるいくつかの潜在的な増築/転用がある。中谷氏は対象である痕跡から、丁寧にセヴェラルネスの所在を指し示し、私たちに建造物という痕跡を読むとはどのようなことなのかを教えてくれる。そこでは、結果のほうから事後的にのみ可能な唯一必然的な因果の連鎖を痕跡にあてがってすませるのではなく、さりとて「子どもには無限の可能性がある」といった意味で用いられるような非現実的な可能性に痕跡を「開く」と称し思考停止を促すのとも異なる理路がセヴェラルネスという概念とともにさまざまな仕方で示されている。



本書は、事物——つねに痕跡でしかない事物——に向かい合ったとき、言葉でなにをなしうるかを改めて教えてくれる書物でもある。本書と前後して邦訳が刊行されたエイドリアン・フォーティーの『言葉と建築——語彙体系としてのモダニズム(Words and Buildings: A Vocabulary of Modern Architecture)』(坂牛卓+辺見浩久監訳、鹿島出版会、2006/01、amazon.co.jp)はちょうどこの、建築について語るということはなにをしていることになるのかという古くてつねに新しい問題を扱っているが、中谷氏の書物はまさにその問いに対するいくつかの回答を示したものである。


そう述べればもはや贅言は不要かもしれないけれど、建築や都市といった対象への関心の度合いを余所に、言葉と物の関係に関心がある向きは、本書から多くの刺激を受けることができるのではないかと思う。そこで手渡されるものは、建築や都市ということを離れたとしてもいくつかの方向へ向けて転用してゆくことができるだろう。


最後に余計なことを言えば、建築書の棚に置かれることが多い本書だが、人文書のコーナーにも置かれてよい一冊ではないだろうか。


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