連載第5回「総論の構成 その3――「新致知学」」



三省堂荻野真友子さんから、三省堂ワードワイズ・ウェブでの「「百学連環」を読む」連載のお話をいただいたとき、当初は隔週くらいでどうかという案があったように覚えています。よせばいいのに、私は毎週でどうでしょうと申し出て、ご覧のように週に一度の掲載とあいなったわけであります。


一回当たりの文字数も文字数なので、「百学連環」の本文を写しながら、読み解いてゆくことを考えると、月に二度ではなかなか前に進まないのではなかろうかと考えてのことでした。


しかし、考えてみれば(あるいは、考えてみるまでもなく)、週に一度の連載ということをいままでしたことがない私にとって、未知の世界へ足を踏み込むことでもあったのです(←オオゲサ)。少し前に、新潮社の『考える人』で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」という連載を始めさせていただきましたが、こちらは季刊誌ですので、季節に一度巡ってくるというペース。


当然至極のことながら、金曜日(連載日)というのは、こちらが何をしていても巡ってくるもの。こうして否応なく、「百学連環」のことを考え続けるという毎日が始まりました。かつて恩師の赤木昭夫先生に、「なにかの問題に取り組むときは、寝ても覚めてもそのことを念頭に置くようにすべし」との教えを受けたのですが、連載という形式は、いわばこのことを半強制的にやってしまうわけです。


大学での講義もこれに似たところがあります。週に一度90分、「映像文化論」の講義を行うために、それに先立つ一週間は、ずっと頭のどこかでこのことを考えたり、関連文献を読んだり、映像を観たりしています。そして、月曜日の講義の少し前、土日を使って、講義でお見せするPowerPointのファイルをつくりながら、90分の構成を練り上げるという次第。


連載も講義も、なんと申しましょうか、そんなことでもなければとてもしないようなことを強制的にするという意味で、たいへん面白い知の制度と言いましょうか、人間の発明物なのだなと、つくづく思います。


そして、取り組む側から見ると、連載の締切や講義の期日というものは、そのつどそのつど、その時点での自分にできる最大限のことがどの程度のことなのか、という限界と可能性を自覚させられるという意味で、なかなか剣呑な仕組みでもあります。


先の赤木先生のもう一つの教えに、「何かが完成すると思うな。いつも道の途中で一区切りをつけたと思え」という言葉があります。完成したと思えばそれ以上の努力はしないものだが、実際にはさまざまな事情から、そのつど「できあがった」ものとして提示しなければならないことがある。それはそれとして精一杯やるとしても、完全にできあがるということはないのだから、その後も続けて取り組むべしという意味だと、不肖の弟子は勝手に解釈しているところです。


それはさておき、連載も5回目を迎えました。じつはまだ、目次を眺めているところ。

 「百学連環」の「総論」、その目次を眺めているところでした。目次といえども、じっくり見てみると、いろいろなことを考えさせられます。いきなり本文にとりかかるのもよいけれど、ここでは先にこれから歩き回る土地の地図をざっと眺めておこうという目論見で、この目次を見ているのでした。


 さて、今回は残る二つの項目「新致知学」「真理」のうち、前者を見ることにしましょう。


つづきは、以下のリンク先からどうぞ。


三省堂ワードワイズ・ウェブ > 「「百学連環」を読む」 第5回
 http://bit.ly/iu8i1T


三省堂ワードワイズ・ウェブ > 「「百学連環」を読む」目次ページ
 http://bit.ly/icTKRW
 拙連載全体へのリンクをまとめた目次ページです。